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2019年08月27日23:21

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猪木とビンス(509)最終章

馬場の全日本プロレスも、日本陣営の駒が徐々に揃ってきました。72年10月31日、ミュンヘン五輪アマレス日本代表の鶴田友美(当時21歳)の入団を発表。

72年12月19日、新潟市体育館で馬場との世界ヘビー級王座争覇戦第4戦に敗れたザ・デストロイヤーが試合前の公約通り、「負けたら馬場の軍門に降る」として日本側へ加入。73年3月の「第1回チャンピオン・カーニバル」の前に家族を連れて日本に移住しました。

また、第1回チャンピオン・カーニバルには国際プロレスの設立にも関わった在米フリーのヒロ・マツダとマツダの日体大荏原高校時代の後輩であるマティ(ミスター)鈴木が助っ人参戦。マツダは単発参戦でしたがマティ鈴木は準レギュラーとしてチャンピオン・カーニバル終了後も全日本プロレスのリングに定期参戦。

72年12月、「ジャイアント・シリーズ第2弾」に国際プロレスよりレンタル参戦した本郷篤は73年2月の「ジャイアント・シリーズ結集戦」からリングネームを肥後宗典と改め全日本プロレスへ正式に移籍しています。

旗揚げ時「世界の強豪達を相手に王座争覇戦十番勝負を行い、然るべき成績を残した際は力道山家より寄贈された世界ヘビー級王座のベルトを巻く」と記者会見で語っていた馬場は、ブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、デストロイヤー、ウィルバー・スナイダー(2回)、ドン・レオ・ジョナサン、サンマルチノ、パット・オコーナー、ボボ・ブラジルと対戦、8勝2分の成績で、この年の3月16日にハワイ・ホノルルを本部に結成されたPWF(パシフィック・レスリング・フェデレーション、太平洋沿岸レスリング同盟、ロード・ブレアース会長)の認定する初代世界ヘビー級王者となりました。(NWA加盟に伴い世界のニ字は後に削除)

これで団体の看板となるタイトルも出来た訳です。

さらに、馬場は外国人メインブッカーであるドリー・ファンク・シニアの強力なプッシュにより73年2月、毎年8月の年次総会を待たずして、臨時役員会にてNWAの加盟が認められました。プロモーターになってから半年位しか経っていない馬場がNWAメンバーになったのは異例中の異例であり、馬場のこれまでのトップレスラーとしての実績、潤沢な日本テレビマネーがものを言ったに違いないです。

この時点で国際プロレスと全日本プロレスのパワーバランスは逆転しつつありました。

第1回チャンピオン・カーニバル(3月17日、世田谷区立総合体育館〜4月25日日大講堂)は旗揚げ半年で「春の祭典」を開催。この時点では日本プロレスがまだ存在しており、「ワールド・リーグ戦」の名称は使えませんでしたがトーナメントによる優勝争いとタイトルマッチの二本立てとしチャンピオンの祭典の名に相応しいシリーズとなりました。

南半球ヘビー級王者マーク・ルーイン、太平洋岸ヘビー級王者キング・イヤウケア、中南米ヘビー級王者カリプス・ハリケーン等王者を招聘。(実際は即席タイトル、本大会の為に作られた王座)馬場も全日本プロレス初参戦となる"アラビアの怪人"ザ・シークとPWF世界ヘビー級タイトル戦2連戦を行い、連続防衛に成功。

トーナメント本戦でも馬場はルーインを破り優勝しています。

国際プロレスの春の祭典、IWAワールド・シリーズは70年から毎年春に開催されて来ましたが、この年は強調関係にあった全日本プロレスのチャンピオン・カーニバル開催により「無益な興行戦争は避けたい」と秋へ開催すると発表。ここでも馬場を立てて譲歩しています。
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