mixiユーザー(id:1940449)

2019年06月01日14:01

81 view

ユダヤ教と神道 5

縄文人の文化的同一性は 今後の発掘調査の結果を期待したいところではあるが
今現状を見ても 祭祀的な用途もあったらしいと言われる多くの出土品のデザインが
非常に特異な形で残っていることからもある程度正しいのではないかと思われる
特に土器の異様とも言えるデザイン的特性の共通性は
それぞれが独自に生まれたものであるとは考えることができないほどで
世界的にも認められている

この特殊性は 日本列島のほぼ全域を覆うことから
当然 一つの類似した文化が伴っていたと言えよう
ただ それが一つの国家的な共同体になるのは周辺所地域に対してずっと後の事であり
少なくとも一万年に及ぶ
緩やかな部族社会が続いていたものと思われる

古神道の元となる宗教的概念御発声がこの頃に育まれたであろうことは間違いないものと思われるが
それは 縄文人の今考えられているよりはるかに活発な移動の可能性を示すものでもある
でなければ 周辺部族との文化的慣習の違いを乗り越えてまで
共通項を示さねばならない必要性に欠けるからだ

ユダヤ人を緩やかながら一つにまとめていた繋がりは
縄文人と同じく部族間に存在する文化的慣習の同一性であり
いわば便宜上の神だ
その長い歴史の上に成り立っていたのが神道の原型であり
そしてユダヤ教の原型でもある

ユダヤ教はその地点から
国家を持ち統一国家となるにあたって
非常に複雑なレトリックを使用したということになってはいるが
実際にはそれらの論理は後から文章化されたものであり
合議制部族社会から王政に至る必要性が生じ
それを行った経緯を神を使用して再構築されたものだろう

その話は 構造的には日本神話の「国譲り」とも似通ったものがあり
ある種の合意によって新たな神を生み出したものであるとも言える

おそらくこういった変化は世界中のあらゆる部族の中で行われた社会的な変化であり
その背景には鉄器の使用と農耕による人口増加が挙げられる
違うのは その前段階の時間的長さとその感覚がいかに血肉となっていたかだ

強く土地とのつながりが強調される日本神道と
文化的つながりを重視するユダヤ教では
一見 その差は大きく正反対のようにも見えるが
共に 宗教は文化であり生活であり 神そのものへの存在をかけたものではないという点では
非常に似通ったものだろう

日本人に無神論が当然のように受け入れられるのと
ユダヤ人に 神なきユダヤ人が多数存在するのは
必ずしも偶然ではない
そういった原型を持つ文化的集団には
まず神が存在し その支配下で行動を起こす文化的集団とは異なる様々な動機が存在する

多少突飛ではあるけれども
宗教を見るに
そこから神概念によって作り上げられたものや記憶を排除していけば
そのような類似性も存在するのだということになるだろう


2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年06月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

最近の日記

もっと見る