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2018年08月29日12:14

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猫小説『我が名は龍である』

猫小説『我が名は龍である』

 この家に来て二ヶ月になるのだが、ふと気付いたのが、どこから来たのかという簡単な問いに対して答えられない事である。誰かに訊かれた訳でもなく、親に不満がある訳でもないので、どうでも良い話なのだが、おそらく以前居た場所で、嫌いな筈の服を長い間着せられても平気でいた記憶がある。というのも、最近家族が私に服を着せた事があって、その時はとてもむず痒かったので、何度着せられても直ぐに剥ぎ取った。そんな時ふと思い出したのである。
 記憶というものはとても曖昧で、痛い思いや嫌な思いをした事があっても、楽しい事があると、つい興奮して忘れてしまっている。私はよく親に飛びかかってじゃれるのだが、気がつくと親の前足に噛み付いていて、その際、空のペットボトルをバリバリ鳴らされることで我にかえるのである。何故前足を噛むのかという問題については、バリバリ音から逃げた直ぐ後によく考えるのだが、いつもよく分からない。ただ、親の前足がなんだか美味しそうに思えて、ちょっと噛んで、少し強く噛んで、強く噛んで、そのまま体を回転させて、と、居ても立っても居られない状態になるまでの間に、親の「itai!」という鳴き声が何度か聞こえ、挙句の果てにバリバリ音である。私の頭が、首に付いている鈴と同じように出来ているとすると、小さな固い玉が頭の内壁にカンカン・バリバリ当たって痛痒くて目眩がしそうなくらいなので、本能に従った噛みつきを中断せざるを得ない。
 そうだ!本能だ。噛みつきたくなるのは本能の仕業に違いない。だとすると、噛みつきを我慢するのは体に毒な筈ではないか!では、こうしよう。ペットボトルが親の傍にない隙を狙って噛み付く。「itai!」と三回鳴いたら離す。その後、親の前足を舐めたりすればなおの事許される筈である。しかし、ペットボトルが傍にある場合はとても注意が必要である。ちょっとした記憶より、本能の方が優っている筈であるから、気を抜けば、テイクバックの後に、腕に勢いよく噛み付いた挙句にバリバリの餌食となり得る。本能に打ち勝つ為には、その本能の「豪」を、上手に逸らす「柔」で立ち向かう必要がある。何に関心を向けるか、それは縞々の尻尾を持つ蛇ネズミに飛びかかって事なきを得れば良いのだ。よし、実行だ。
 うまい具合に親がおいでおいでしている。そんな事をされれば私は臨戦体勢をとり、そして機を見て走り出す。見える、見える、スローモーションで親の姿がみるみる大きくなって目の前には、腕、噛み付くには丁度良い細さである。そして私は飛びかかる。しまった!左腕にペットボトル、確認を怠ってしまった。駄目じゃん。

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