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2018年04月15日01:38

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簒奪者だけど名君:唐の太宗

「雍正王朝」を見てたら、康熙帝の皇子たちの後継者争いの熾烈なこと。
雍正帝が即位してもまだあきらめずに皇位を狙う。
ドラマの中の話ですが、国のために働く雍正帝に対して、皇位を狙う兄弟たちはまず皇位が目的で、重臣たちを味方に付けて皇帝の政策にひたすら反対します。

そういうのを見ていると、皇位を狙うような野心のある人は、皇位そのものが目的であって、結局はいい皇帝になりそうにないな、と思いました。

しかし、中国史にはちゃんといるんですね。
「簒奪者だけど名君」という皇帝が。

それは、唐の太宗です。

唐の建国の前、隋は煬帝の時に国が乱れ、群雄割拠の時代になります。その時、頭角を現したのが李淵です。李淵は隋を倒して唐朝を建て、初代皇帝・高祖となります。
唐の高祖は長男の李建成を皇太子にしました。
しかし、次男の李世民は武勇に優れ、高祖が唐を建てる時も大活躍をしていわば「建国の功臣」といってもいいほどの功績をあげました。人望も厚く功績も高く、高祖から「天策上将」という称号を与えられました。

しかしそれを見て穏やかでないのは皇太子・李建成です。高祖に訴えて李世民の忠臣を遠ざけさせようとしたり、李世民の勢力をそごうとします。
危機を感じた李世民は、長安城の北門、玄武門で李建成をを殺害しました。
これが「玄武門の変」です。

玄武門の変で、李世民は皇太子になります。さらにすぐそのあと高祖は李世民に位を譲ります。高祖は上皇となり、李世民は皇帝に即位しました。
なぜ李世民は兄殺しという暴挙に出たのか、真相は諸説あります。そもそものちの歴史が李世民つまり太宗に都合のいいように書かれているため、それほど追いつめられていたのだ、と正当化するような内容になっています。

兄の皇太子を殺害し、父親から皇位を譲らせる…言い訳にしようのない「簒奪」です。

しかし、太宗は善政を敷き、建国間もない唐を繁栄に導きます。その治世は年号から「貞観の治」と呼ばれ、その記録である「貞観政要」は後々まで統治の手本とされました。
太宗は武勇に優れた建国の英雄であるとともに、勉強熱心で国を治める力をも備え、文武両道に長けていました。そのため、中国史上でも指折りの名君となりました。

ついでに、太宗の皇后は賢夫人でした。長孫皇后は唐朝建国前からの妻で、太宗が皇帝に即位すると皇后になりました。装飾品も身につけず質素な装いをしていたと言います。

太宗は有能な臣下を集めており、それもまた名君の条件でもあるのですが、優れた臣下は国を第一に思い、皇帝にもへつらわずに進言をします。太宗は臣下が有能であるがゆえに進言するのをわかってはいますが、時にはその発言が気に障り怒りを爆発させることがありました。
長孫皇后はそんな太宗を諌めて怒りを鎮めさせたことが何度もあったそうです。

これ以上書くと長くなるので、長孫皇后を調べて出てきたサイトを貼り付けておきます。
http://www.epochtimes.jp/jp/2010/08/html/d37340.html

簒奪者、必ずしも暴君に非ず。
中国史はいろいろな人物がいて実におもしろいものです。



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