モハメド・アリとベロニカ・ポーシェ嬢との結婚式から帰国した猪木は闘魂シリーズ終盤戦に戦列復帰。
終盤戦のテレビ収録マッチではシリーズ参戦の大型パワーファイター外国人とシングルマッチで対戦しています。
まず、10月2日、山梨県富士急ハイランド大ホールではザ・ハングマンから勝利。
10月4日、新日本プロレス初使用となる京都・日本正武館ではスタン・ハンセンと9月2日、愛知県体育館でのNWFヘビー級選手権試合以来のシングル戦。
試合は9分39秒、猪木の反則勝ちとなりましたが、タイトル戦後のノンタイトル戦で猪木がフォール勝ち出来なかったことでハンセンの新日本での扱いは下がらず、次回にもエース格として来日が期待されました。
しかし、翌78年はハンセンは来日がなく、ジョージア地区を中心に試合をしています。
おそらく、ハンセン側の家庭の事情(子供が産まれた、もしくはハンセンはアメリカ人の前夫人とは離婚している)があったかと推測出来ます。
79年4月、第2回MSGシリーズに来日したハンセンはその怪物性に磨きがかかっていきますが、そういう意味では78年だけ来日がなかったのは非常に惜しまれます。
10月5日、松戸市運動公園体育館では猪木はブラックジャック・マリガンと一騎討ち。このカードも9月16日、久留米・福岡県立体育館での再戦となっており、一度は猪木の弓矢固めで決着はついています。
試合はハンセンが乱入し、マリガンに加勢するかと思いきや、ハンセンは猪木のみならず、マリガンにも攻撃を加えてしまい、仲間割れ。
猪木そっちのけでマリガンとハンセンが殴り合いとなり、怒ったマリガンがもうやってられるか、とばかり控室へ逃走。
12分22秒、試合放棄で猪木の勝ちが宣せられましたが、後味の悪さを残した結末となりました。
アメリカでは売れっ子だったマリガンは当時は既にブラックジャック・ランザとのザ・ブラックジャックスは解散しており、帰国後はジム・クロケット・ジュニアのNWAミッドアトランティック地区、WWFでトップヒールとして活躍。
次の来日はここから5年3か月も経ってからの83年1月の新日本、新春黄金シリーズになりますが、ハルク・ホーガンの引き立て役に回った感があり、日本での仕事に限って言えば、ハンセンとは明暗分けたと言えます。
シリーズは10月6日、草加市ヤコウスケートセンタープール場で閉幕。
猪木は10月25日、元世界ランカーのヘビー級ボクサー、チャック・ウェップナーとの格闘技世界一決定戦が決まっていましたが、その合間を縫って渡米。
アメリカの人気映画シリーズ「がんばれ!ベアーズ大旋風〜日本遠征〜」(パラマウント映画、公開は78年夏)にゲスト出演(本人役)のロケに参加しています。
このあたりもアリ戦で知名度が高まった効果と言って良かったでしょう。
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