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2017年05月27日08:54

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短編小説『幸せ住処(すみか)』

『幸せ住処(すみか)』


 私は口を噤んでおかなければならない。少しでも声を出せば、誰かが私の存在を知り、なぶり殺しに来るだろう。幸い私は仲間の誰よりも無口で、耳が良かった。そして体が小さい分、小食で、俊敏で身軽い。家のブロック塀などは簡単に飛び越えられる。この土地で誰にも見つからずに三年ほど生きながらえたのは、その性質のおかげで、また、この屋敷に居られたのは、持ち主のお婆さんが非常に優しい人間だったからである。


 私が捕らえられ、運ばれる際、道路が雨によって崩壊していなければ、もうこの世にいなかったかもしれない。輸送トラックが転落して荷台が崩れ、他の者達がこと切れた中で、一命を取り留めかろうじて隙間から脱出できた私は、生き延びるため兎に角走った。運転席の奴等が、もしまだ生きていれば、必ず私を追って来るはずだったからである。
 林道を休む事なく走り続け、稀に通行車があると物陰に潜んでやり過ごした。そうしていくつもの山を越えた。
「はあ」
 山の麓の集落が見える所でようやく足を止め、息をついた時には、既に西の空が夕焼け色に輝いていた。そして暫くとぼとぼ歩いていたが、寝ているところを見つけられては堪らないので、麓に下り、誰も居ない家を探して隠れる事にした。
 麓に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっており、集落の明かりは灯っているものの、人目につかないよう移動するには丁度良かった。暫く歩くと川向こうの集落の外れに、明かりが一つも灯っていない大きな屋敷があり、その中の様子を探る事にした。
 小さな川ではあるが、橋の上を歩けば人目につく。私は一旦川岸に降り、そして勢いよく走って川を渡った。しかし目測を誤り、少々水の音を立ててしまった。それに気づいた近くの家の犬が激しく吠え始めた。犬というのは、大して意気地が無いのだが無闇矢鱈と吠える。飼い主が出て来て何か言っている。
「はいはい、もう誰も居らんよ。吠えんで良いよ。」
 犬は飼い主の言うことを無視するのが常のようである。一頻り吠えた後、満足したのか、犬は静かになった。
 私は再び忍び足で進み、川の土手を上がると、辺りを見渡し屋敷に向かって一気に走った。
 生垣に着くと、庭に入れる隙間を見つけて頭を入れた。やはり人気は無く、誰も居ないように思えた。綺麗に整った大きな庭を急いで渡り、屋敷の裏に回ると、押せば開く扉があったので、中に入ってみた。すると、目の前にお婆さんが居たのだ。私はどうして良いか分からず、置物の様に突っ立って居た。しかし、お婆さんも動かない。もしや置物かと歩み寄れば、
「あらまぁ、トラちゃんじゃないね。どこ行っとったねぇ。よう帰って来たねぇ。ほれ、こっちおいで。お婆ちゃん歩くのが遅いから、こっちおいでぇ。」とお婆さんは言った。
 見たこともないお婆さんである。しかし、お婆さんの言葉と仕草にかかると、子供の頃から知っている様な気になって来るのである。私は恐れを忘れてお婆さんに近づき、体をすり寄せる。お婆さんの手が私の首に触れ、一瞬少しだけ仰け反ったが、その小さな皺々の温かい手が心地よくて全てを委ねた。
「ああ、可愛いね、トラちゃんは良い子ねぇ。ちょっと見らん間に大きくなったぁ。ああ、よおし、よおし。」
 このお婆さんの言葉だけは分かる様な気がして、不思議でならなかった。
「寒かったろぉ、はい、お婆ちゃんと一緒に中に入ろ。」
 私はお婆さんの歩みに合わせ、ゆっくり歩いて屋敷の奥へと入った。

 目を覚ますと、お婆さんは私の頭を撫でていた。外はうっすらと明るくなり、朝を迎えている。ゆっくりと振り向けば、お婆さんは口を横に開きながら、私に微笑みかけた。
「ああ、起きたね。ゆっくりしたら良い。」
 そう言いながら、台に手をかけ、立とうとしている。私は立ち上がり、お婆さんが立ち上がりやすい様に体を寄せてあげた。
「おお、トラは優しいねぇ。ありがと、ありがと。いよい、しょとぉ。」
 私はこの時、お婆さんの役に立てるのなら、ずっとこのままそばに居ても良いと思った。
 お婆さんは隣の部屋に行くと何かを持って戻って来た。
「ほれ、安ぁすい豚の肉だけど、トラは大きいから、これが良いでしょ。ほら。」
 私は肉をじっと見つめた。あまりの嬉しさに口をつけることが勿体無いとさえ思った。こんなことは初めてである。肉とお婆さんの顔を交互に見つめ、少しだけ口をつけ、またお婆さんを見ると、
「ああ、ああ、遠慮しないで全部食べて良いのよ。」
 お婆さんの顔は愛そのものであった。私は細切れの肉を全部咥え飲み込んだ。そしてまたお婆さんを見ると、満足そうに顔を緩ませていた。
 その日、お婆さんに色んな事を教わった。水を飲むときのレバーの開け閉め、トイレでの用の足し方、冷蔵庫の開け方など、私が分かるまでじっくり時間をかけて教えてくれた。
 そして夕方が近づくと、お婆さんは、私に奥の部屋の押入れに入るように促して言った。
「これから人が来るけど。驚かさないように、トラは隠れなさい。静かにしようね。良いね。」
 私は素直に従った。押入れの戸が閉められると、真っ暗になったので、以前に潜んでいた穴倉の事を思い出していた。

 森は伐採のために年々狭められていた。獲物も減り、毎日腹を空かせたまま、もうじき飢え死にしてしまうのだろうと思いながら眠った。
 煙たさを感じて目がさめた。煙の中に炎が見える。いよいよこの森の全てが人間に焼かれてしまう。と煙に咽びながら穴倉を出ると、破裂する音と同時に、突然腰に衝撃と激痛が起こった。驚いて突っ走りながら気づいた。森は燃えていない。痛む腰を見ると何かが刺さっている。いくら体を振ってもその異物は取れない。狼狽え暴れているうちに、意識は遠退いて行き、人間達の姿が私を取り囲んだ。気づくと木組みの檻の中。他にも動物が捕らえられていた。人間どもの声が聞こえ、車のエンジンが掛かり、そして箱が動き出した。私は人間どもに喰われる運命なのかと恐ろしくなった。そして転落。荷台が壊れ、光が漏れる。

「あっれまぁ、トラちゃん、暗くて怖かったでしょ、ごめんね、ほら、出て来なさい。」
 お婆さんが戸を開け光が入ると、私は押入れの中の物をぐちゃぐちゃに引き裂いていたことが分かった。その様をじっと見ていると、お婆さんが言った。
「ああ、気にせんで良いよ。おいで。」
 押入れから出ると、お婆さんは私の頭を撫でた。

 暫くお婆さんの屋敷の中には誰も入って来る事はなかった。しかし、ある夜、お婆さんが寝入った後、私が庭に出て月を眺めていると、表の入り口の方から忍び足で男が入って来た。私は見つからないよう、鍵をかけていない裏の扉から中に戻り様子を伺っていると、やはり男は扉をゆっくりと静かに開けて入って来た。私はじっとしていた。男は私の姿が見えないようで、横を通り過ぎようとしていた。私は男の体に尻尾を軽く当てて反応を見た。男は振り返って私の姿の気づくと、
「はっ⁈」
 と声とも呼吸が止まったとも取れる音を発し、置物のように静止した。私はこれからどうしようかと考えながら、尻尾だけは男に軽く触れるように振り続けた。耳を澄ませるのだが、男の息をする音が少しも聞こえない。
(これは面白い。狸を捕らえた時、死んだ振りをするのを見た事があるが、人間も死んだ振りとは。もう少し遊んでみるか)
 微かだが、この男、肩が小刻みに震えながらゆっくり上がり下がりしている。私は何気無い素振りで体をひねり、顔を男の方に向けると、男の顔は、皺が無くなってしまうほど引きつっている。そのまま男を通り過ぎ、そしてまた振り返る。男と目が合う。鼻のあたりに皺を寄せながら口を大きく開けると、男はとうとうたまらずに逃げ出そうとするが足がもつれて床に倒れた。
「かっ、くっ、」
 などと小さく声を発しながら、虫のようにぎくしゃくとのた打ち、こちらに振り向き、また扉に向かって這う。それを何度繰り返しただろうか。私はずっと動かずにただ見ていた。暫くして扉から出て行ったが、それからずいぶん後に庭の鉢植えが倒れる音がした。男は腰を抜かしたままずっと這って逃げていたようだ。もう、これに懲りてここには来ないだろう。そう思って私は眠りについた。
 それからも他の人間が来る時には、お婆さんが私を押入れに隠れさせて見つからないようにしてくれた。夜になってお婆さんが寝てしまうと、私は外へ出ては人間に見つからないように十分注意して走り回った。そんな生活が三年続いた。


 ある日、お婆さんが病気になり、日中、近所の女性が看病に来ることになった。二日ほどは事無きを得たのだが、三日目の朝、お婆さんの容体が悪くなったようで、女性は家の中で何かを探していた。
「お婆ちゃん、氷嚢あるかね、知らない?ああ、前どこかで見たんだけどねぇ。」
 と言いながら、私が隠れていた押入れの戸を開けてしまった。
「は!ト、ト、トラじゃないかね。お婆ちゃん、トラとそっくりよ。お婆ちゃん。」
 女性は私を見て驚いたものの、怖がっているようでもなかった。
「死んだトラが帰って来たのよ。ね、可愛いでしょ。だけど、私も年寄りになってしまったからこれからどうしたものかと思ってるよ。」
 私は押入れから出て、お婆さんに近寄り手を舐めた。
「お婆ちゃん、動物園の人に相談してみようか。こんなに大人しいから、大丈夫よ。」
「……うん、そうねえ。」
 お婆さんは私の頭を優しく撫でた。

 数ヶ月後、三人の男達がやって来た。一人は銃を持っている。しかし、お婆さんがずっとそばに居て私を撫でているので私は大人しくしていた。
「おおぅ!なるほど。やはり1940年までに絶滅した筈のバリトラですね。おそらく最後の一頭。これは凄い。」
 どうやら男達は私を連れて行くらしい。お婆さんが選んだ事だろうから私は素直に従い、外で待っていたトラックに乗り込んだ。私は檻の中でお婆さんを見ていた。お婆さんは心配そうに私を見ていた。そして扉が閉められた。
 人間と虎がずっと一緒に居られる筈がないのである。どうせ私は三年前に一度捕まった身。良い夢を見させてもらったと思えば儲けものである。
 トラックが停まり、扉が開くと、眩しい光が入るのと同時に獣の匂いがして来た。トラックが停められた場所は、見た事があるような景色だった。お婆さんの家に似ている。庭があり、裏口があり、そこを入れば、椅子にお婆さんが座っていた。
「トラちゃん、これからも一緒に住もうね。私はトラちゃんの飼育係になったのよ。何も出来ないけどね。撫でてあげることくらいなら出来るかな。もう隠れなくて良いのよ。」
 お婆さんは両手を広げた。私はお婆さんに近づきそして寄り添った。


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