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2017年05月09日11:42

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短短小説『大学教授失踪事件』

『大学教授失踪事件』

 少年が豆腐屋の後をついて行く、というところで小説は途切れていた。万年筆は、蓋が胴軸に被せられたまま、筆先が剥き出しの状態で机上に転がっている。左奥に置かれた湯呑みにはお茶が入っているが、冷え切ってから数日経っているようで、表面には、彼がそこにいた時に舞っていた筈の埃が着水していた。木枠のガラス窓に雪が降っているのが見える。彼の外套は鴨居の上に丁寧に掛けられていた。
「鞄や財布はあるのですか?」
 山崎の言葉は、この状況に少なからず事件性を帯びさせた。
「先生がいつも掛けてらっしゃる、縦長の黒い鞄が無い。」
「ああ、そうですね、あの干からびた感じの。しかし、玄関に鍵は掛かっていませんでしたが。」
 確かに。あの神経質な先生に限って鍵を掛け忘れるという事は私達には考えられない。
「では、憲兵に連れて行かれたという事でしょうか。」
「そう言えば、原稿用紙が曲がっている。憲兵が執筆内容を確認した後だろう。」
 その時、玄関が開く音が聞こえた。玄関を閉める音は聞こえず、その代わりに、早歩きで廊下を近づいて来る足音が聞こえてきた。
「何だ、君達は。」
「先生!」
 私と山崎は驚いて声が揃った。
「はははは、何だお前達か。どうした、腹でも減ったか?」
「あ、いえ、あ、はい、腹は減っていますが、そういう事ではなく……」
 私達は一日中飯も食わずに先生を探して歩き回っていたので、腹が空いている事をその時思い出した。
「そうだな、すまん。三日ほど講義をすっぽかしたからだろう?」
「ええ、どうなさったんですか?」
「いやあ、お恥ずかしい話でね、小説を書いていたんだが、豆腐屋が家の前を通る下りがあって、そこへ丁度、本当に豆腐屋が通り掛かったので、小説のように追いかけて行って、後の筋書きを実際にやってみていたんだ。」
「何をされていたのですか?」
「主人公は少年なんだが、助平小僧でな。通りのお姉さんがたのスカアトをめくって回っていたので、警察に連れて行かれてね。本当に貴重な体験をした。」
 私達は口を半開きのまま三十秒ほど固まっていた。
「じゃあ、鰻でも喰いに行くか。」
「あ、はい!喜んでお伴します。」
 私達は失踪と逮捕そして釈放という教授の珍小説の呪縛から解かれた。
 
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