84年7月23日、ニューヨークMSGで行われたWWFの「ビンス・マクマホン・シニアメモリアルナイト」に参加の為、猪木は渡米し、新日本プロレスのサマー・ファイト・シリーズ7月23日、五所川原市民体育館、24日、弘前市民体育館、25日、十和田市民体育館の3大会を欠場しています。
MSGのリングで試合をしたのは80年12月29日のボビー・ダンカン戦(NWFヘビー級選手権試合)以来3年7か月ぶりでしたが、今回はシニア時代と異なりテレビ朝日の収録もありません。
シニア時代であれば猪木の試合はもとより、ハルク・ホーガンの試合も収録OKだったと思われますが、そこはビンス、厳しい取材規制、報道規制をかけています。
猪木はチャーリー・フルトン(73年2月日本プロレス、76年5月新日本に来日、80年10月には国際プロレスにマスクマンのザ・USSRとして来日)と対戦し9分32秒、延髄斬りからの体固めで勝利。
フルトンは今年3月に67歳で亡くなっていますが、訃報が日本でYahoo!ニュースで流されたのもひとえにこの時の猪木戦があったからに他なりません。
猪木はさらにビンス・マクマホン・シニアメモリアル・バトルロイヤル(18人参加)にも出場し23分12秒、レネ・グレイを体固めで破り優勝を果たし、ビンス・シニアの霊前に花を添えました。
この日のメインイベントはホーガンにグレッグ・バレンタインが挑戦したWWF世界ヘビー級選手権試合。
スリーパー・ホールドでホーガンのスタミナを奪う作戦に出たバレンタインが試合を優勢に進め、ホーガンの膝を椅子で攻撃。得意の足4の字固め狙いにいきますがこれはホーガン懸命のカット。
ならばとバレンタインはセカンドロープからのダイビング・エルボードロップ、これはホーガンがカウント2でクリア。
さらにバレンタインはもう一度セカンドロープに登ってのダイビング・エルボースタッブ、これはホーガンが下からカウンターのアックスボンバーで迎撃しました。顔面にヒットしてバレンタインはダウン。
ホーガンはすかさずロープに飛んでのギロチンドロップから体固め。カウント3が入り、ホーガンの勝利。王座防衛に成功しています。
この日のもう一つのハイライトはWWF世界女子選手権試合。王者ファビュラス・ムーラにウェンディ・リヒターが挑戦しリヒターが勝利して新王者になっています。
リヒターは80年に全日本女子プロレスに来日、ザ・ダラス・カウガールとして日本でも女子版スタン・ハンセンという高い評価を受けて人気が急上昇。
全女ではミミ萩原やジャガー横田とも対戦していますが、ヒール外国人ながらも美貌を誇り、男性ファンも多く、ベースボール・マガジン社発行の「デラックス・プロレス」編集部に呼ばれ一日編集長にもなりました。
世界女子王座はWWFの前身であるWWWF発足前の56年に創設されていますが、ニューヨーク州アスレチック・コミッショナーが女子プロレスの試合を禁止した為、いつしか封印されていましたが、ビンスの時代になり復活。
WWFで長年ヒールマネージャーをしていたキャプテン・ルー・アルバーノは音楽業界に精通しており、歌手のシンディ・ローパーと交流がありました。
その関係からアルバーノを通してローパーがゲストで呼ばれ、ベビーフェイス(アメリカでは)のリヒターのセコンドに。
ヒールのアルバーノはムーラのマネージャーに付くという対立アングルが組まれています。
この試合はロックとプロレスの融合という形で米国MTVで全米ネットワークで流され、大きな話題を集めました。
これが翌年から開催される世界最大級のプロレス・ショー「レッスルマニア」の原点と言うべき試合でした。
23年生まれのムーラはこの時既に61歳になっていましたがまだまだ現役であり、メイ・ヤングとのおばあちゃんタッグで07年に84歳で亡くなるまで現役を名乗りました。
ムーラvsリヒターの試合のコンセプトはWWWF創成期のバディ・ロジャースvsブルーノ・サンマルチノのパターンであったことはこの日記を毎回読んで下さるマニアの方であればお気づきかと思います。
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