「わざわざこんなところで髪を切るかね〜」
あきれ半分、戸惑いと妙な喜びを半分にしながら俺は彼女の髪を手に取る。
僅かな硫黄臭と彼女のシャンプーの香りが鼻腔を刺激した。
「だって一年に一回しか会えない日だもの、旅行と一緒に思い出が欲しいの」
言い終わると同時に風が髪先を優雅に揺らす。
普段ならばあり得ない髪の動きを指先で抑えながら空を見上げる。
大きな鍋に放り込まれたように山々が俺たちを囲み、それに縁取られた空は青く澄み渡っている。
遠くの方で沢山の人が忙しく動き回っている。 そういえば今日は祭りなんだそうだ。
「だからって温泉地の真ん中で髪を切るなんてな〜」
言葉とは裏腹にハサミと手先はブレない。 シャキシャキとした音を響かせながら毛先をすいていく。
今まで何人もの髪を切ってきたし、外で切ったことだってある。
ただこんな山間の温泉地で温泉の湯煙を見上げながらしたことなんてなかったので非日常的な感覚に我ながら少し高揚していることに内心苦笑してしまう。
美容師なんてものはイメージとは裏腹に泥臭く忙しい。
遊ぶどころか、下手すれば休憩すら取れずにひたすら髪をハサミで整えたりシャンプーをする。
店が終われば掃除の後にミーティングとひたすら練習に励む毎日。
なので彼女と一泊二日の旅行なんてことが出来た時は神様に感謝をしたくらいだ。
「遠距離恋愛の彼女をほったらかしにしてたんだからこれくらいのお願いは聞いてもバチは当たらないよ、それに今夜は七夕だしね。短冊に願ってもよかったんだから」
おどけるように彼女は言うが本当にやりかねないから俺は笑えない。
ただ地元から都会での修行にかまけて、彼女に何もしてやれなかったのは事実なのだ。
なのでこれくらいはしてあげるのはある種、仕方ないだろう。
せいぜい切った髪を入れるための袋と邪魔にならない場所を探すことになったくらいは苦労のうちにも入らない。
どうりで道具を持ってきてねと彼女が言ってきたわけだ。
心の饒舌さ以上にハサミは軽快に動く。
「手際がいいよね、美容師さんみたい」
「美容師だよ」
「そうだったね、忘れてた〜」
朗らかに彼女は笑うが、少しだけ視線を下に向ける。
「地元から出るときにはまだ美容師さんじゃなかったもんね」
「ああ、そうだったな。もう一年と数ヶ月か〜なんか長いようで短かったな〜」
ハサミは止まらない。 断ち切るようにバザバサと髪を切っていく。
「来年も髪を切ってね。それまで切らないから」
「そこまで切らなかったらだいぶ伸びるな〜」
「うん、伸びるよね。きっと後ろからみたら短冊みたいかも」
短冊という言葉にハサミが止まった…が、すぐに動き出す。
「そうだな、短冊みたいかもな」
「うん、だから短冊書いて待ってるね、来年もまた会えますようにって書くから…絶対待ってるからね」
ハサミは止まらない。 背中まで伸びた彼女の髪に切り込んでいく。
そうだ、俺も短冊に願いを書くとしよう。
街を出るときには肩までしかなかったこの髪に願いを書き付けよう。
思いを込めてハサミという名の筆で短冊のような彼女の髪に。
「よし、出来たぞ」
肩の上で綺麗に切り揃えられた髪を撫でながら、
「プロみたいだ〜」
「プロだよ」
俺は笑って後ろから彼女を抱きしめる。
天の川のように俺と彼女の時間を隔てていた綺麗な黒髪は背中から切り失せて柔らかく華奢な彼女の身体の感触を俺はしっかりと噛み締める。
空は雲一つなく、たまに祭り用の花火の試しうちなんだろうか。
ボンボンと薄煙が丸く滲んで青に消えていく。
それは俺の住む街からも彼女の街からも見えるだろうか?
俺たちは互いに無言で見上げている。
空はどんなに離れたところでさえ同じ姿を移しているかのように平凡に澄み渡っていた。
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