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2016年03月21日18:45

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【旅行】 石巻・女川の旅

1.あの日から5年

2011年3月11日14:46、東日本に未曾有の被害をもたらした大地震が発生した。あの日から5年が経過した。復興も少しずつ進んではいるものの、鉄道などの交通機関もいまだに不通の区間がある。そのような状況の中で、JR仙石線と石巻線は、昨年ようやく全線復旧を果たした。鉄道が動けば人や物資の輸送が大きく改善され、復興が加速することが期待できる。仙石線と石巻線が復旧したら行かねばならないと思っていたが、今回思い立って行くことにしたものである。

東京駅に着くと、早朝だというのに人込みだ。さすがに首都東京の中心駅だ。3連休の初日であり、各地へのレジャー客で賑わっているのだろう。東北新幹線の乗り場に行き、「はやて111号」に乗車する。7:16発の盛岡行きだ。上野、大宮と停まると、次は仙台までノンストップである。東京から仙台まで1時間40分で着いてしまう。仙台駅に降りるのも久しぶりだ。大震災以来、仕事で一度行っただけで、プライベートでは震災前以来である。小雨が降った形跡があるものの、ほとんど雨は止んでいた。


2.仙石東北ライン

在来線乗り場からSuicaで改札を入る。仙石線をはじめ仙台近郊でもSuicaが使えるので便利である。仙石線乗り場は地下にあるが、今日は地上の東北本線乗り場から行く。仙石線全線運転再開と同時に運行を開始した仙石東北ラインで行くのである。仙石線は元々が私鉄だったこともあり、駅間が短く追い越しの出来る駅もほとんどないため、高速化ではネックになっていた。東北本線経由にすれば高速化は可能であり、両線の線路も近接しているところがあるので、接続線を作ればすぐに実現できる。問題は車両だ。両線は電化方式が異なるのである。気動車を使えば直通は出来るが高速性能で電車に劣ることになる。そこで登場したのはハイブリッド気動車である。ディーゼルエンジンで発電機を回して、その電力で走行する。さらに回生ブレーキで生じた電力を蓄電して走行用電源にも使える。実にエコな高性能車両だ。HB-E210系という形式が与えられている。

ホームに入ってきた仙石東北ラインのハイブリッド気動車は4両編成で、今度の発車は1日1往復だけの特別快速だ。仙台を出ると、塩釜、高城町、矢本にだけ停まり石巻に着く。乗車率もかなりよく、定刻の9:24に出発した。快調に東北本線内を飛ばして塩釜に到着した。この次の駅の松島までは駅間が長い。トンネルもあり、仙石線の線路とも並行したり交差したりする。右側には日本三景の一つである松島の美しい眺めが見える。松島駅の手前で一瞬減速して接続線に入る。接続線内でも一旦停止して、仙石線の線路に合流する。この接続線は正式な路線名としては東北本線であり、松島−高城町の支線という位置付けである。実際は松島の手前で分岐するが、松島駅構内の扱いだ。このまま石巻まで急いで行く必要もなく、野蒜駅あたりを再訪してみたいと思い、高城町で下車する。高城町駅は以前来た時のまま変わらない駅だ。ローカル私鉄の駅のような雰囲気が望ましい。前に来た時は、松島駅からここまで歩いていき、仙石線で松島海岸まで行って松島観光をしたのだった。つながりそうでつながらなかった両線が、震災復興がきっかけとはいえ、ようやくつながったのである。


3.東松島〜野蒜と矢本

高城町からは仙石線の各駅停車に乗り換える。205系電車の4両編成で、車内に入ると東京の電車と変わらない。ここから陸前大塚あたりまでが、仙石線から眺める松島のハイライトである。その陸前大塚を過ぎると新しい線路だ。全線復旧にあたり、内陸側に移した新しい線路に付け替えられたのである。東名、野蒜の両駅も内陸の高台に500mほど移設されている。野蒜駅で降りてみた。以前おりたことのある野蒜駅ははるか下方に見えるが、駅周辺は更地が目立つ。旧野蒜駅まで歩いて行こうとも思ったが、道が閉鎖されていて行くことは出来ない。新しい野蒜駅も駅自体はきれいだが、駅周辺には何もないし、どこにも行けない。駅前ではようやく宅地造成が始まりかけたところで、震災から5年経った今でも、まだかような状況であることを目の当たりにして愕然とする。かつての野蒜駅から「余景の松」の中を抜けて野蒜海岸まで散策していったことなど、遠い過去の出来事のようになってしまった。どこから現れたのか、視察団らしき人たちがいて、彼らに説明をしている人がいるので、いっしょに話を聞く。東名、野蒜駅前は住宅移転先として造成中であり、東名の方が中心になる予定らしい。今は野蒜にだけ快速が停まるが、これは以前の名残で停めているのだろう。いずれにせよ、東名、野蒜地区は以前とは全く別の町が出来る訳で、その時にどう生まれ変わるのだろうか見守りたい。

駅に戻り、石巻行きの快速に乗る。仙石東北ラインのハイブリッド車だ。野蒜駅を過ぎると広大な更地が広がるが、ここには前は住宅や建物があったのだろう。陸前小野からは元からある線路に再び戻る。矢本駅で下車した。矢本は東松島市の中心駅である。降りるのは初めてだ。航空自衛隊松島基地に近く、駅名板も航空機が描かれている。駅は以前のままのようであるが、駅前の案内図などを見ると、駅の間近まで津波が押し寄せたことが分かる。少し歩くとメモリータウンと称する商店街がある。ふと見ると、「TSUNAMI LINE 2011.3.11」の文字が記してある矢印看板があった。76cmの高さである。そこまで津波が押し寄せたということである。仙石線の沿線は津波の被害を受けていないところはない。町が流されるか残るかも紙一重の差であったと思う。

その津波を示す矢印看板のある建物は「レストランぱらだいす」という名の店だった。まだ正午には早いが、ここらで昼食とすることにする。通常なら「なんだ、この名前は」と突っ込みたくなる店名だがそれはおいておき、中に入る。こぢんまりとしたちょっと洒落た感じの店である。客は数人で空いていた。今日のランチのポークソテーピカタ焼きを注文する。なぜか料理が次々と2階に運ばれていくなと思ったら、2階に団体が来ていたようだ。「ライス16」という声が聞こえたので16人か。空いていた訳ではなかった。少し時間がかかったが、別に急ぐ訳ではない。のんびりと食事をし、デザートがこれまた豪華で、すっかり満足した。少し商店街を散策して矢本駅に戻る。


4.石巻

矢本からは仙石線の普通電車で石巻に向かう。陸前赤井の次には石巻あゆみ野駅が来週26日に開業する。すでに駅は出来上がっているが、今日はだまって通過するだけだ。この駅の周辺は代替住宅地として整備されるところで、その最寄駅として新たに設置されるものである。東松島市と石巻市の境界近くに位置する駅で、駅名には新たな歩みという思いが込められている。終点の石巻で下車した。

石巻は何年ぶりだろう。駅前には石巻市役所があるが、市役所と書かれていなければ商業施設にしか見えない。それもそのはずで、かつて「さくら百貨店」だった建物をそのまま市役所に転用しているのだ。1階は商業施設だった名残か、estaという商店施設になっている。その市役所/estaの前には仮面ライダーV3の像があるが、実は石巻駅近くのあちこちに、仮面ライダーやサイボーグ009のキャラクターの像がある。そして、その通りを「いしのまきマンガロード」と称しているのだ。これらの作品の作者である石ノ森章太郎さんは、石巻市の隣りの登米市の出身だ。石巻には石ノ森萬画館もある。ここは石ノ森章太郎さんの萬画(石ノ森さんは「漫画」ではなく「萬画」と書く)があふれる町なのだ。ちなみに、「サイボーグ009」のアニメ映画の音楽を担当した小杉太一郎さんも石巻の出身だ。

石巻の町を散策する。一見ありふれた地方都市で、普通に賑わっているように見えるが、やはり町のあちこちに震災の爪痕が見える。ところどころに見える更地は、かつて商店か住宅があったのかもしれない。いきなり「津波襲来の地」という文字が目に入る。震災の恐ろしさを忘れないようにと、記録を残しておくのであろう。その近くにあるのが「絆の駅 石巻NEWSee」と書かれた小さなビルで、中に入ってみる。石巻日日新聞のビルであった。中でいろいろと説明を聞く。震災直後は輪転機も使えなくなり、新聞が発行出来なくなった。しかし、そこは新聞社の使命、手書きの壁新聞で毎日発行し続けたのである。町が今どうなっているか、どこに行けば何があるか、とにかく情報が欲しいという人々に少しでも役立つようにと発行し続けたのである。その時の新聞もそのまま展示してある。遠く離れた場所でTVで見ているのとは違う、生々しい情報だ。津波襲来直後の航空写真もあり、やはり駅周辺まで水に浸かったことを改めて知る。情報量は遠方でTVを見ている人の方がはるかに多い、現地ではとにかく情報が不足していたという。それが現実であった。最後に、避難場所となった日和山に行っていないなら是非行ってみるとよいと勧められ、そこに行くことにした。

日和山へはここから歩いて10分ほどだ。いっしょに話を聞いていた人も日和山に向かうようで、折角だからいっしょに行くことにした。奈良から「青春18」で2日かけて一人旅で石巻に来たという女子大生だ。最近はすぐに新幹線や飛行機だが、学生時代は自分もそういう旅をしていた訳で、やはりいいなあと思う。震災当日は部活のあと「サンマルク」で揺れを感じたが、あとですごいことになっていてショックだったという。日和山への坂はかなりきつい。若い学生さんは苦にしていないようだが、私は息も切れ切れだ。頂上に行くと、港が見えるが、その周辺も更地ばかりである。思わず合掌。頂上にある鹿島御児神社にもお参りし、一日も早い復興を願う。日和山は石巻を一望できる場所であるが、それとともに多くの生命を守った避難場所でもあったのだ。ここで学生さんと別れて駅に戻る。


5.女川

石巻からは石巻線で女川に向かう。石巻線の石巻から先の区間に乗るのは実に26年ぶりだ。当時の記憶は曖昧だが、そうでなくても記憶は全て過去のものになってしまった。石巻線も浦宿と女川の間がずっと不通で、昨年ようやく全線復旧した。震災によって女川駅は土台だけを残して消失し、駅に停まっていた車両は流されて横倒しになった。それから5年、ようやく女川の町も再生に向かって進み始めたところである。石巻線は2両編成の気動車で、かなりの客が乗っていて、各駅で少しずつ降りていく。活気のあるローカル線で、きちんと生活を支える足として機能しているようだ。

女川駅で降りる。真新しい駅舎だ。元の駅から150mほど内陸側に移転しての再開業である。町全体が嵩上げされており、駅前にも複合商業施設「シーパルピア女川」が昨年12月に出来た。食料品、日用品から、飲食店や集会場、さらに観光案内まで、すべてここでそろう。というよりも、ここが女川の町の全てである。従来町のあった場所は、多くが更地のままで立ち入りも出来ない。2日前には天皇皇后両陛下も、まさにこの場所をご視察された。新しく生まれ変わり始めた女川の町の象徴ともいえる場所である。海の近くには横倒しになったままの女川交番が残っている。震災の怖さを後世にも伝えるために、あえてこのまま保存することを検討しているらしい。駅から見える地域医療センターの前には、「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるのだ」と書かれた横断幕が見える。女川の人たちの前向きな強い意志を示しているものだ。

折角ここに来たのだから、何もしないで帰ることはないだろう。先ほどの昼食の時間が早めだったこともあり、ここで軽く食べることにして、「きらら女川」でワカメうどんを食べる。ワカメはもちろん、ここ女川に近い金華山近海で採れたものである。そのワカメの美味しいこと。さらに「アガインステーション」で金華さばの味噌煮の缶詰を買っていく。これは自宅に持ち帰って、宮城のお酒を飲みながら食べるのに良い。ごくささやかであったが、ここで消費することも復興支援の一つである。改めて見ると、各店舗とも賑わっている。ここにしか「町」がないから、ここに集まってくるのである。女川はもう元の姿には戻れないが、新しい町として生まれ変わる準備は進んでいる。


6.石巻線

駅に戻り、石巻線に乗車する。16:32発の小牛田行きだ。車両の番号を見たら、来た時と同じだった。本数が少ないせいもあろうが、結構乗る人が多い。浦宿、沢田、万石浦、渡波、陸前稲井と、駅毎に少しずつ降りていく。シーパルピア女川に買物や食事に来ての帰りというところだろうか。石巻で大半の客が降りてしまった。仙石線に乗り換える人も多い。ここで20分停車する。車内でのんびりとくつろいでいると、ようやく発車した。石巻から2つ目の鹿又で下車した。2時間に1本程度しか列車の来ない無人駅で降りた理由は、今夜の宿泊地がここだからである。最初は仙台市内に宿を取るつもりだったが、ネットで確認したら軒並み満室であった。少しエリアを広げて探してみて、ようやく取れたのがここなのである。駅周辺は寂しく、しかも宿は駅から徒歩15分ほどだ。分かりにくい地図をたよりに歩くと、無事着いた。

宿はメープルテラスという名前だが、いわゆるホテルとはちょっと趣が違う。どうも、仕事で長期滞在する人を想定した宿泊所のようである。実際、「○○建設工業」などと書かれた車が何台か駐車場にとまっている。平日ならもっと多いのだろう。おそらく観光客が利用することはほとんどあるまい。20部屋毎の棟が6棟ある。外観はなんだかなと思ったが、中は快適だった。何よりもまず照明が明るい。ホテルは照明が暗めのところが多いが、これはうれしい。しかし、駅からここに来る途中ですでに分かっていたが、周囲には飲食店が皆無である。見事に何もない。これでは旅先の夜の楽しみがなくなる。宿での食事も可能だが、予約は朝食のみとしている。幸い隣りに、というより同じ敷地内にコンビニがあり、ここが唯一の食料調達手段だ。コンビニで弁当と酒とつまみを買って、あとは部屋でくつろいでいるしかない。TVを見たり本を読んだりする以外にすることもなく、それにも飽きて、いつになく早く寝た。

翌朝は宿内で朝食を取って、鹿又駅に向かう。少し早めに出て少し駅近くを散策したが、やはり飲食店は皆無であった。住宅の他、町工場が少しあるようなところだ。駅の向こうは小学校だ。昨日は気付かなかったが、駅に向かう途中に神社があったのでお参りする。八幡神社だ。

鹿又から乗った石巻線は3両編成で、昨日よりも1両多い。もっとも車内は昨日よりもすいている。前谷地はホームも長く風格のある駅だ。古き国鉄時代の駅を思わせる。ここから気仙沼線が分岐しているが、気仙沼線の列車ではもはや気仙沼までは行けない。柳津から先はBRT(バス高速輸送システム)になっており、鉄路はない。これも震災の影響である。不通となった線路を復旧させるよりも、バスに転換した方が時間もコストも縮減できるとの判断だ。その柳津行きの気動車が、隣りのホームに停まっていた。ここで3分停車し、さらに涌谷でも行き違いのため3分停車する。このあたりは長閑なローカル線だ。小牛田では8分で接続する東北本線に乗り換える。こちらはさすがにJRの幹線で、車内もやや混雑していた。松島を過ぎると昨日通ったところを戻るが、今日は各駅停車である。ふらりとどこかで途中下車してもよかったが、結局そのまま仙台まで乗っていった。


7.仙台市営地下鉄

どこに行っても震災の爪痕が残っていたが、仙台駅周辺は復興が早く、完全に以前の状態に戻ったように見える。その仙台に、地下鉄の新しい路線が昨年12月に開通したので、それに乗ることにした。仙台駅の地下鉄乗り場に行くと、「今日は国際センター駅の混雑が予想されますので、帰りの切符は予め買っておいてください」と案内している。何かイベントがあるのだろう。新しく開通した東西線は、文字通り仙台の東西を結ぶ路線で、仙台駅で南北線と交わる。仙台駅はちょうど真ん中の駅だ。改札をSuicaで入ろうとしたらはねられた。まさか共通化されていないとは思わなかったが、1週間後の3月26日からは使えるようになるらしい。300円の切符を買って乗る。どちらに行っても終点まで300円なので先に来た方に乗ることにした。来たのは八木山動物公園行きだ。スカイブルーの新しい車両である。南北線は緑、東西線は青ということで、色分けが横浜の地下鉄に似ている。

車内には難しそうな洋書を読んでいる人や、何やらネームホルダーを下げている人がいるが、この人たちはみな国際センターで降りた。ここで開かれているイベントとは、日本循環器学会学術集会であった。東北大学の各キャンパスの最寄駅もいくつかあり、東西線の西側は学術的雰囲気(?)のする区間である。国際センター駅の手前で一瞬地上に出て、国際センターの建物も見える。学術集会の客が降りると、残っているのは子供連れが多い。行先は八木山動物公園だろう。その八木山動物公園の手前でも一瞬地上に出るが、それが森の中で、これが仙台駅からすぐの場所かと思うが、そういう場所だからこそ動物園が出来ているのだろう。いや、仙台は杜の都だからいいのだ。終点で下車する。

動物園に行きたい訳ではないので、駅の周辺を少し見たあとはまた地下鉄の駅に戻る。荒井行きはガラガラの車内だ。仙台までは今来た道を戻り、そのまま荒井まで乗っていく。今回の旅で、仙台市営地下鉄はおまけのようなもので、乗ったことがなかったからついでに乗っておくだけであったが、荒井駅を降りると、「仙台も震災の被害にあったことを忘れていませんか」と訴えられたような気がした。駅構内にある「せんだい3.11メモリアル交流館」である。この2階の展示室に行くと、震災の記録である写真が展示してある。さらに、駅周辺の地図や模型に貼られた「思い出」の数々。「ここでよく遊んだけどなくなった」とか、「この店は美味しかったけど流された」とか、荒井駅のある若林区も津波の被害を受けたのであり、記録と記憶をとどめておく場所として、駅の開設に合わせてオープンしたのである。地下鉄東西線も、東西の交流を深めるとともに、東側の復興の助けになるようにとの意味もあるそうだ。

このまま地下鉄で仙台駅まで戻ってもよいが、折角来たから少し歩いてみることにした。地下鉄で1駅、次の六丁の目駅まで歩く。風がかなり強くなってきた。昨日は暖かかったが、今日は風がある分、体感温度はやや低めに感じる。地下鉄に沿って直角に2回曲がると、車の多い大通りに出る。道路沿いにラーメン店が多いことに気付くが、昼も近いのでこのあたりで昼食にすることにした。昭和29年創業と書いてあるも、外観も内装も平成的な中華そば屋に入り、五目ラーメンと餃子を食べる。ここもなかなか美味しかった。店を出る頃は正午を過ぎていたが、入口には入店待ちの客が大勢いて、ここは人気店らしいと知る。少し早めに入ってよかった。六丁の目駅から地下鉄東西線に乗り、仙台駅に戻った。


8.宮城県をあとに

まだまだ行けるところはたくさんあるが、今回の旅の目的は昨日終えたので、あとは帰るだけとする。約1時間後の新幹線の指定を確保して、S-PALなどで適当に時間をつぶして、14:00発の「やまびこ214号」で東京まで帰った。白石蔵王以外は各駅に停まり、郡山や宇都宮で後続の新幹線に抜かれつつ、のんびりと帰る。のんびりと言っても、仙台から2時間16分で東京に着いてしまう。ビールとつまみで車窓を眺めつつ過ごしていたら、いつしか眠くなってしまい、大宮付近に来て目が覚めた。

震災復興がどの程度進んでいるのか、実際に現地に行ってみて初めて分かることも多い。少しずつではあるが、ようやく歩み始めたように思えるが、まだ完全復興には道のりは遠いようである。5年後10年後に、どのような町に生まれ変わっているだろうか。また、訪れることもあるかもしれない。
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