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2015年05月01日01:16

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「大谷光瑞と大谷文庫」(3)

大谷光瑞は海外に向けた布教活動を行い、さらに毎年のように海外へ行って各地の文物をかき集めたため、巨額の資財を消費し、本願寺は多大な債務を負った。1914年2月西本願寺は教団付属の慈善会基金および共保財の金を流用したこと、財務危機を招いたことで、大谷光瑞を告発した。1914年5月14日大谷光瑞は法主の職と伯爵の地位を辞任させられた。

最初の中国巡遊以来、大谷光瑞はその探検隊に至るまで中国からどれだけ貴重な文物を奪い去ったか、正確な数字はわからないものの、それらの文物の価値は極めて高い。その一部分は旧日本関東庁博物館(現在の旅順博物館)と旧満鉄大連図書館(現在の大連図書館)の重要な館蔵品になっている。

当初これらの文物典籍は全て神戸に運ばれた。ここは大谷光瑞がこの文物にふさわしい保管所を建てた場所である。1907年、大谷光瑞は巨費を投じて神戸の六甲山の中腹に新しく大谷別邸を建てた。これは「山の眺めを楽しむ」「海の眺めを楽しむ」という意味を込めて「二楽荘」と名付けられ、1909年に竣工した。
特筆すべきは、この別邸の上方に主人が丹精込めて規模の大きな白い鉄筋コンクリートの書庫を配置したことだ。この白い建物は大谷光瑞の住宅「含秀居」である。この大型の書庫は漢籍を専門に収蔵するために建てられ、「山上図書館」と呼ばれた。1914年5月大谷光瑞は引退後の一時期をここで過ごした。大谷光瑞はかつて専門家を派遣してここにある文物おとび漢籍を整理保存させ、「二楽荘叢書」第一冊を出版した。(全四冊)。

1914年、大谷光瑞にとって事の多かった年の秋はまたその人生運命の折り返し地点でもあった。浄土真宗本願寺の門主と伯爵位を辞した後に言ったことは「二楽荘を人に譲り、私は京都の総寺院とも関係を断つ。インドに旅をして、それからも日本には戻らないことにした。そして気持ちのいい気候の大連に家を買って住みたい。」
1914年11月1日、静かにひそんでいた時期を過ごした後、大谷光瑞は再び海外へ向かって旅に出た。これは光瑞の「四界を家となす」旅の始まりだった。1915年4月光瑞は大連に到着し、本願寺関東別院の落成式典に出席した。この時光瑞は旅順新市街に購入したロシア風建築の修復工事を進めているところだった。時期を判断し情勢を量ったのち、大連を後半生の寓居とすることにした。

この決心は何を意味するのだろうか。これまで述べたように、大谷光瑞が一生の目標としたものは、宗教・政治・教育だけでなく考古研究に珍籍所蔵であり、しかも文物と漢籍は生命と同じようなものだった。その人生の心血を注いでもたらした文物典籍が国内にあるのにこの身は海外に居を移しているのは、光瑞にとっては耐え難いことだった。このときの決意は、光瑞自身の命運と、そして二楽荘に置いてきた文物と典籍の命運を根底から変えた。

1915年6月、光瑞の指示によって、含秀居に所蔵されていた大量の漢籍と文物が神戸を出発して上海に着いた。そのうち二百五十箱余りの漢籍は上海正金銀行の倉庫に置かれた。同年8月これらの文物と漢籍は上海から旅順に運ばれ、8月16日二十台余りの馬車によって旅順大谷邸に運ばれてきた。ここに至って、本文の始めに述べたずっしりと重い木箱の謎はおのずから解かれた。そして大谷光瑞本人は8月8日に大連市内から旅順大谷邸に移り、10月中旬までずっと住んでいた。名目は避暑のためだが、実際はこれらの漢籍のためだった。引退してからというものこれだけの期間に一つの所にいたのはめったにないことだった。

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