1903年、外遊に出ていた大谷光瑞は、ちょうどインドのカルカッタのホテルに滞在していたところ、ボンベイを経由してきた緊急の電報によって父親が重い病気にかかったことを知った。そしてそのすぐあと父の円寂の知らせを受け取った。そのため光瑞は直ちに帰国して本願寺の宗門を継ぎ、西本願寺第二十二代門主となり伯爵位を継承した。28歳の時である。大谷光瑞は門主になると誓いの言葉を述べた。「宗教はすべからく国家の社稷を以て重きをなす」。
1904年1月7日、大谷光瑞は総寺院に日露戦争に対する「臨時部」を設置し、同月12日ただちに腹心を大連に派遣した。これがすなわち本願寺の大連における布教の始まりである。同年5月、弟の大谷尊由は従軍伝教師として大連に赴き臨時伝教所を設けた。日露戦争後には大連にやって来る日本人は急増し、情勢の変化に対応するため大谷光瑞は巨費を投じて大連の南山のふもとに本願寺関東別院を建てた。この建築は雄大壮観で、73000平方メートルの広大な寺域を持ち、落成の式典には大谷光瑞自らが出席した。この間に本願寺では大連に大連倶楽部・大連仏教婦人会・大連仏教青年会・大連幼稚園・外国語研究所・女子技芸学校などの施設を作っている。
旅順新市街は龍河の西側一帯の街区にあり、当時は千歳倶楽部・物産陳列所・満蒙物産館・関東都督府博物館(のちに関東庁博物館、現在の旅順博物館)などがこの場所に建てられ、そのため「官庁街」と呼ばれた。旅順大谷邸は新市街の最も高い山の坂の上にあり、ゲルマン風古代城塞様式の展望台を備えた建築である。大谷邸から数十メートルの所に大谷光瑞が建てた旅順策進学院の学生宿舎がある。1918年4月、大谷光瑞は日本全国各県庁から40名余りの学生を募集して旅順の策進学院に呼んだ。そして自ら「東漸史」「東洋史」の授業を担当した。
世に知られていることだが、大谷光瑞と満鉄の関係も特別なものである。両者の内一方は宗教界の大物、もう一方は日本の国策会社で、満鉄の設立当初から本願寺は最大の株主であった。大連の植民統治を実施する方針の下で両者は持ちつ持たれつの関係であった。満鉄関連の活動は、ほとんど大谷光瑞の大連での活動の主体となった。本願寺の関東別院の建設についても、資金力から人手に至るまで、満鉄がなければ存在しえなかったと言われており、中には本願寺別院ではなく満鉄別院だという人もいた。満鉄の後ろ盾があってこそ大谷光瑞の大連での地位は誰も及ばないものになったといえる。
1935年には大連女学校を創設したが、当時の関東庁の規定では公立の学校でなければ「大連」の名前を冠することはできなかったが、大谷光瑞だけは唯一の例外だった。仏教を広めるために大連郊外に「浴日荘」という円形の大寺院を建てたこともある。日本陸軍の飛行場と寺院は隣接しており、建物が飛行機の離発着に影響を及ぼしていた。陸軍がそのことで抗議をしたとき、大谷光瑞は逆に「この建物を飛び越えることができないような技術力で戦争に勝てるのかね」と言い返した。軍はこれに対して何も言えなかった。
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