81年10月8日は宇都宮・栃木県体育館大会、ノーテレビの地方大会ですが、豪華カードが組まれました。
メインイベントでは馬場とブルーノ・サンマルチノが初の友情タッグを結成、ハーリー・レイス、バック・ロブレイ組と対戦、馬場が16文キックからロブレイを片エビ固め。
61年、馬場が初のアメリカ修行に行った際、同じ東海岸地区をサーキットしていた馬場とイタリア系だったサンマルチノは共に出世を争うライバルであり、同時に友情が生まれました。
アメリカで先に成功を収めたのはサンマルチノで63年5月17日、ニューヨーク・MSGでバディ・ロジャースを48秒、カナディアン・バックブリーカーで撃破、第2代WWWF世界ヘビー級王者となりました。
馬場に「お前は身体が大きいのだから、これに乗れ」と中古のキャディラックのリムジンをプレゼントした話は有名です。
67年3月に日本プロレスに初来日したサンマルチノは大阪府立体育会館と蔵前国技館で馬場と死闘を展開、特に3月7日、蔵前での60分時間切れ引き分けの激闘は馬場の生涯の名勝負の一つと言っていいでしょう。
72年9月、馬場が全日本プロレス旗揚げ準備の為に渡米しサンマルチノをニューヨークまで尋ねるとサンマルチノは全面協力を約束しています。
10月の旗揚げジャイアント・シリーズに参戦し、10月22日、日大講堂での旗揚げ記念興行では馬場と世界ヘビー級王座争覇戦(後のPWF王座)の第1戦を行い1-1の引き分け。
翌73年11月には日本でアントン・ヘーシンクのプロレス転向第1戦の相手も務めています。(カリプス・ハリケーンと組んで馬場、ヘーシンク組に負け)
帰国後直ぐの73年12月10日、MSGでスタン・スタージャックを破りWWWFヘビー級王座に返り咲き。
翌74年からWWWFと新日本プロレスの業務提携が開始され、ビンス・マクマホン・シニアから何度も新日本行きを命じられましたが断固として首を縦に振らず。
76年、モハメド・アリと猪木の格闘技世界一決定戦を前に、ビンス・シニアもプロレス側のコーディネーターとして協力、WWWFのチャンピオンであるサンマルチノもプロレス以外のマスコミからコメントを求められましたが、
「アントニオ猪木は三流レスラー、日本のトップレスラーはジャイアント馬場である」
とバッサリと猪木の評価を貶めて見せました。
サンマルチノは引退まで日本では馬場に義理を立てています。
鶴田はセミ前でブロディとのシングルマッチ。場外でチェーンを持ち出して鶴田の首を絞めるブロディに仙台で息子のディンク君を痛め付けられたドリーが怒りの乱入で鶴田に加勢して4分51秒、鶴田の反則負け。
その流れからセミファイナルで行われたドリーとテリーのザ・ファンクスvsジミー・スヌーカ、アレックス・スミルノフ組の試合には今度はブロディがチェーンを持って乱入しファンクスの反則勝ちとなっています。
NWA世界ヘビー級王者リック・フレアーは阿修羅・原とシングルで対戦して足4の字固めでギブアップ勝ち。
上田馬之助はマイティ井上とシングルで対戦していますが、翌9日の蔵前から参戦のタイガー・ジェット・シンが一足早く来日しており、試合に乱入しての上田の反則負けとなっています。
この10月8日は、全日本の創立10周年記念興行の前日であり、後から大会開催を発表した新日本プロレスが同じ蔵前国技館で創立10周年記念興行第3弾を行っています。
崩壊した国際プロレスとの対抗戦は結局3試合だけとなりました。
メインは猪木とラッシャー木村との大将戦となり、木村に額を割られて流血した猪木が執拗に腕ひしぎ逆十字固めをかけ続け、ロープに逃げた木村に対してレフェリーの制止を無視して逆十字を離さず猪木の反則負け。
藤波は寺西勇をジャーマンで破り、アニマル浜口は元国際プロレス所属だった剛竜馬にブロックバスター(サモアン・スープレックス)からフォール勝ち。
新日本残留を決めたハルク・ホーガンはスタン・ハンセンと組んでディノ・ブラボー、長州組と対戦、ハンセンが長州をウエスタン・ラリアットから体固め。
タイガーマスクはマスクド・ハリケーン(ボビー・リー)と敗者マスク剥ぎマッチを行いましたがハリケーンは椎間板ヘルニアを患っており、風車式バックブリーカーでタイガーマスクがあっさり勝っています。
新日本の蔵前大会は13000人(超満員)発表、国技館は立錘の余地もない程の観客で膨れ上がり、全日本の出鼻を挫くことに成功しています。
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