●2014年07月22日(火) 晴れ
▼思いもよらぬことであった。
突然、脇から呼びかける声がするではないか。
「もしもし、ナラトさん。起きてください。もしもし・・」
「うーむ、むにゃ、むにゃ・・」
「ナラトさん、もう朝ですよ。裸で寝ていたら風邪をひきますよ!」
「うーん・・・、あれっー、きみは・・・!」
「そうです。木常熊蔵です」
「きみ、いったい、いつ、どこから入ってきたの?」
「どこって、こんなに窓を開けっ放しにしておいたら、どこからでも
どうぞって言っているようなもんじゃないですか」
「まあ、泥棒にも入られたから、それはそうなんだけど、それはいいとして
また突然に、どうして、ユーはナニしに狐思庵に?」
「あはは・・、冗談ですか。狐思庵は私の仮寓でもありますから、久しぶりに
顔を出した・・ということで、ご機嫌伺いでほかに用件はとくにありません」
「そう、それだったらいいけど、きみもキツネとしてはだいぶ年寄の部類だから
実は、もうずいぶん日記も書きに来ないので、もしかしたら・・、なんて
心配してたんだよ・・」
「はは・・、それはどうも、ご無沙汰ばかりで・・」
▼私は、きのう「日記」を3本ほど書いて、居間に行ってそのまま寝込んでしまった
らしい。
柳田國男の『涕泣史談』(五)のなかに、「言葉」について、
「言語を表現の唯一手段であるかのごとく、言いもしまた時時
は考えようともしている。
これは学問の悲しむべき化石状態であって、新たに国の針路を決し
なければならぬ当代においては、ことに深く反省してみるべき惰性
または因習であるかと、私などは考えている。」
と書いているのだが、「新たに国の針路を決しなければならぬ当代」とは
いつの時点なのか、と思って出典・初出を調べた。
すると、『涕泣史談』(昭和16年6月、国民学術協会公開講座・原題「国民
文化の問題」中央公論社刊)とあった。
▼昭和16年(1941年)2月には、英・米・豪・蘭の四か国が、太平洋の防衛
問題でワシントンに集まり会談(いわゆる「ABCD包囲網の強化」)を行った。
そして、4月「日ソ中立条約締結」「米・英・加、日本資産の凍結を通告」、
8月「駐米大使・野村吉三郎、ハル国務長官と日米交渉を開始」、10月
「東条内閣成立」、12月8日「ハワイ・真珠湾を奇襲」「英米に宣戦布告」
「マレー半島上陸」と続く。
▼これは、「言葉の勝利」なのか、それとも「言葉の敗北」なのか、と考えた。
言葉は必ずや『正論』に行きつく。
どの国にとっても「正しくない戦争」はないし、「正論」にもとづかない
戦争はない。
『正論』というタイトルで「日記」を書こうとした。
▼また、まえ紹介した木村剛久さんの「
ふるさとの山川 ―― 柳田国男の昭和」
の第一部・第一章「
最初の社説」にある、木村さんがいう、柳田國男の文章の
「いったい何が言いたいのだろうと思ってしまう」わかりにくさのことを考えていた。
柳田國男が、朝日新聞社の社員(論説委員)として初めて書いた『社説』は、
1924年(大正13年)7月1日で、「7月1日から愈々(いよいよ)排日法
の実施につき」という見出しである。
7月1日は、アメリカ連邦政府が日本人の移民を全面的に禁止する、いわゆる
「排日移民法」を施行した日にあたっていた。これにつき、柳田は社説を書いた。
▼「名文であることはわかる。容易に言い表せない鬱屈した感情も伝わってくる。
しかし、後世からすれば、この社説が文体からみても、内容からみても、
とても読みづらいことは、いなめない。
いったい何が言いたいのだろうと思ってしまう。」
と、木村さんは書いている。
そんなことを思いつつ、私は眠ってしまった。
▼突然やってきた、キツネくんにびっくりしながら、きのう寝入るまでのことを
私は、思い出していた。
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