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2014年07月21日15:01

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■「柳田国男の語り口」 (4)

●2014年07月21日 (月)  晴れ

 ▼朝食が済んで、横になる。
  開け放った窓から、風が
  台所のほうへと流れていく。

  ひんやりとした涼気が、
  肌にふれながら、
  さぁーっと渡っていく。


  「高原の朝」と我が家で呼んでいる
  「夏の朝」である。


  飯綱高原の朝、美瑛の丘の朝・・・、
  高千穂の朝、八ヶ岳の朝・・・、
  カリフォルニアの朝・・

  「高原の朝」を思い出しながら
  静かに目をつぶっている。


 ▼柳田國男は、タイトルに「涕泣史談」などと銘打ちながら
  肝心の「涕(なみだ)」や、「泣く」ということの話が
  始まらない。

  ようやく、(四)で始まる。
  ここから筆を起こしてもよかったはずなのに・・。

  でも、そうであったなら、私は「涕泣史談」の記憶のうち、
  ひとつを失う。

  私が「涕泣史談」を覚えているのは、(二)に出て来る、

  「概していうとやや無口な、相手の人柄を見究めないと
   うかとはしゃべるまいとするような人」

  と形容された「故老」と深く結びついている。


 ▼「故老」とは「古老」とも書くが、「昔のことを知っている老人」の
  ことである。

  老人は古くて老いているが、その皆が昔のことを知っているわけではなくて、
  なかに「昔のことを知らない老人」もいるわけで、それでわざわざ「老人」で
  はなく、「古老」さらに「故老」とも書くようになった。



 ▼私が「故老」のことを知ったのは、まだ20代の後半で、福地幸造が柳田の
  『涕泣史談』を引用した文章からだった。

  『部落解放教育の思想』(明治図書)で、福地は「子が親から学ぶべきこと」とは
  何か、「親から子に伝えるべきこと」とは何か、それを部落の歴史に問うていた。

  俗に「涙の歴史」という言葉があるが、喜び・悲しみの歴史の中で、人は何を
  伝え、何を継いでいくべきなのかが問われている。

  「年寄」とも呼ばれる年齢になり、私はあらためて思うのである。

  「あなた、むかしのこと覚えていますか?」
  「あなたは、故老ですか。それとも古く老いた人ですか?」



 ▼以下、涕泣史談(四)である。




    涕 泣 史 談


     (四)


      人間が泣くということの歴史。こんな頓狂な問題を私が提出した
     のも、必ずしも閑人の睡気ざましとのみは言われない。

     そのわけは、これが最近五十年百年の社会生活において、非常に激
     変した一事項であり、また我々の関心をもたずにはいられない一現
     象であり、しかも記録文書の自然の登録に任せておいては、誤った
     推量に導かれるという経験を、我々は持っているからである。


     私はもちろんこの問題のオーソリティではないが、少なくともこう
     いう風に変って来た事情の、一部分は説明し得るような気がする。

     従ってこれから五十年または百年後の文化研究者のために、今のう
     ちにもっと注意深く、かつもっと精確に、じっとこの世の姿を見て
     おいてくれられる若い諸君の数を、多くしなければならぬと主張す
     る、その材料にこれを使おうとするのである。


      あるいはまだ「そんなことはあるまい」と、信用しない人もあろ
     う。

     それを言い開く証拠というほどのものを、挙げて見せることができ
     ないのは事実であるが、今まで本式に注意していた人が少ないとい
     うのみで、まず大体にそう言えばなるほどその通りだと、同意する
     人が多かろうと思うのである。



      人が泣くということは、近年著しく少なくなっているのである。
     これは家にばかりいる者にでもわかることであるが、ことに旅行を
     しているとよく気がつく。

     旅は一人になって心淋しく、始終他人の言動に注意することが多い
     からであろう。

     私は青年の頃から旅行を始めたので、この頃どうやら五十年来の変
     遷を、人に説いてもよい資格ができた。


     大よそ何が気になるといっても、あたりで人が泣いているのを聴く
     ほど、いやなものは他にはない。

     一つには何で泣いているのかという見当が付かぬ場合が多いからだ
     ろうと思うが、旅では夜半などはとても睡ることができないもので
     あった。


     それが近年はめっきりと聴えなくなったのである。
     大人の泣かなくなったのはもちろん、子供も泣く回数がだんだんと
     少なくなって行くようである。

     以前は泣虫といって、ちょっとした事でもすぐ泣く児が、事実いく
     らもあったのであるが、今ではその泣虫という言葉だけはまだ残っ
     ていて、主として泣かせないまじないのようにこれを使用している。


     また長泣きといって、泣き出したらなかなか止めない子供もあった。
     これなどは言葉そのものがすでになくなっている。


     泣くと叱り飛ばしまたは打つという、乱暴な母親を元はよく見かけ
     たものであるが、もう貧民窟に入ってもそれが見られるかどうか、
     わからなくなっている。


     子供の顔つきや肌膚の色、青ばなは垂らさず、シラクモ頭はなくな
     り、身のまわりが一般にさっぱりとして来たことも事実であるが、
     それよりも気持のよいのは、オーンオーンといつまでも泣いている
     児の、どこへ行っても稀になったことである。



      それは年を取ってもう感じが鈍く、気に止めなくなったからだろ
     うと、もしいう人があるならば、事実とは正反対である。

     泣き声の身にこたえるのは、若い盛りよりも年を取ってからがひど
     いのである。

     私の親などはなぜ泣かすと周囲の者を叱り、またはごめんごめんな
     どと孫にあやまっていた。

     気が弱くなって聴いていられないらしいのである。


     一般にまた感情の細かく敏活な文明人ほど、泣くのを聴き過すこと
     ができなくなるものかと思う。





   ★★★  ★★★  ★★★  ★★★  ★★★

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