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2014年03月25日14:52

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■「微妙な問題 (1)」

●2014年03月25日 (火) 曇り

 ▼「曇り」と書いて、ふっと、思う。
  すぐに「微妙な問題」に単刀直入、入らねば
  また横道に行き、タイトルとは別の事を書くことになる・・、と。


 ▼時間はもう少しある。
  書いて消すか、どうでもよくなるかも知れない。

  そらっ、そらっ、
  もう、その一行が余分なところに気が行っている・・
  ということなんだ。


 ▼昨日、遅らせた歯医者の予約は、
  きょう夕方、7:20だ。
  (いま、診察券を入れた財布をもってきて、きのう私が書き入れた時刻を
   もう一度、確認した。そして、横のカレンダーの25日の余白に、
   「7:20」と書いた)

  もう、これでは「単刀直入」からは、ずいぶん
  離れてきた。

  「まだ時間がある」、と、たったそれだけのことを書けばいい・・。



 ▼脚本家・シナリオライターというのは、筋を文章で書くのではない。
  動作や台詞を時系列に書いて、並べて、それで「文章」で書く論理や
  主張を述べねばならない。

  だから、ヘタくそは、それを「せりふ」で言わせる。

  しかし、そうやっても、「微妙な問題」は残る。

  文字で表現する事柄を、立体的な目に見えるものにして、「時間」の
  中で動かさねばならない。

  「微妙な問題」を「微妙な問題」として表現することができない。
  つまり、いま書いた文章を、「手紙に書いてある事にして、それを
  ナレーションで読むことはできる」という事である。



 ▼ほら、随分、遠くなってきたでしょう。
  当初、考えもしなかった展開だ・・・。


  いま、15:32。
  まだ時間はある。


 ▼山田太一『月日の残像』の文章は、展開において、文章なのに
  シナリオのように文章を並べることで「微妙な問題」を立体化させている。

  「時間」は読む人の速度だ。


 ▼中にある『ひとりカラオケ』を読む。

     知人で「ひとりカラオケ」に行くひとがいる。
     中年の女性である。

     数年前、雑談の端で口をすべらしたように言ったので
     立ち入らなかったが、そういうものがあることをはじめて知った。


     それからは、たちまち当り前のようになって
     専用の部屋を作る店があったり、
     昼間にはVIPルームも空いているので
     そういう部屋を一人で使えたりもする
     というようなことも他から聞いた。


 ▼『ひとりカラオケ』の始まりの文章である。この文章の続きは、
  段落なしの、改行だけで、こうなる。
    (上の文章の続き。以下、同じように中略なしで全文引用)

     東北の大地震と津波のあと、「絆」という言葉がキーワードの
     ようにいわれはじめて、それは非常時だから当然の心情で、
     ひんやりしたことを言う気は少しもなかったが、対極の言葉の
     ように、「ひとりカラオケ」が頭の隅にひっかかるのだった。


 ▼文章の「場面」が変わった。文章で「微妙な問題」を採り上げようと
  しているのだ。


     また、いわゆる「孤独死」をただ痛ましく悲惨のように言う人が
     いると、それは近所の人たちの迷惑には違いないから、早く
     死亡に気づくという対策は必要だが、悲惨という言葉でくくっては
     いけない「孤独死」もあるのではないか、と「ひとりカラオケ」が
     よぎるのである。一人もいいものだ、と。



 ▼「一人もいいものだ」、これが「主張」で、
  一般受けとは違った「微妙な問題」の提起である。
  (念のために。これはシナリオではない)


     言葉尻をつかんで怒る人がいるから、念を押すが、
     「絆」に救われる現実もあれば、
     「ひとりカラオケ」に救われる現実もあり、
     それは別の人のことではなく、両方の現実を同じ人間が
     生きている、というようなことを思うのである。

     書いてみれば当り前すぎることだが、絆が大切という正論が、
     そこから逃げたいという心情を隠すようになり過ぎない方がいいと、
     まあ、考えたりしたのである。


 ▼「微妙な問題」、つまり、ここでの「微妙な問題」は正論に異を唱える心情
  である。 世にはいくつもある事柄だ。 ただ、ここでは具体的に、
  「東北の大地震と津波」と「孤独死」とが文字として出てきている。

  この文字を映像にしたら、どうなるか。 そう思って、文章をドラマに
  仕立てる方法を考えながら、読んでみる。
  

  「微妙な問題」をドラマで表現することは、ワンショットなら
  恥じらいや怒りを、クローズアップする指先に表現することができる
  かも知れない。 文字では表現できない表情で「微妙な問題」であるような
  微苦笑とか・曖昧さとか、文字よりもより鮮やかに深く表現できる場合もある。


  しかし、「微妙な問題」の論理をシナリオの筋にするには、力量がいる。



 ▼山田さんはシナリオから文章を書いている。
  私は、逆に、山田さんの文章からシナリオを読んでいる。
  また、続きを引用する。

  言い忘れたが、「まあ、いいか」の「まあ」は、先の文章の
  「絆が大切という正論が、そこから逃げたいという心情を隠すように
   なり過ぎない方がいいと、まあ、考えたりしたのである」の
  「まあ」だったか、と思う。ならば「許容」というか、「一歩退く」
  といった風か?

  そして、「まあ」と言ったので係り結びのように、次の文章は接続詞
  「で」で始まるる



     で、「ひとりカラオケ」にどういう人が行くか、と想像すると
     それはまず、一人で歌いたい人だろうけど、中には歌わなくても
     一人でいられる場所を求めている人もいるだろう。

     こっそり、練習して、
     うまくなってしまおうという人もいるだろうし、 
     (大勢いっしょに居て歌う)順番を待たなくていいから、とか
     人の歌を聞かなくてすむから、ということもあるだろう。

     その代り、うまく歌えても、
     誰も聞いてくれないけれど、
     下手でも何とも思われないのだから、
     これは仕方がない。



 ▼カラオケ屋の「モニターカメラ」の映像に、「ひとりカラオケ」の
  各部屋が映っている。ボックス内の「ひとり」「ひとり」がモニターに
  映し出されて、キャラクターがはっきりとしてくる。

  服装・持ち物・髪型・仕草・性別・年齢で、暮らしぶりも見えてくる。
  そして、「ひとりカラオケ」に来る理由も。
  ここは「ひとり」だけのカラオケ・ボックスだと思っているが、
  実はこれこそが「世の中・世間」であって、そこでの一切が生き方
  そのものであることが、モニターの映像によって、暗示される。


     しかし、何時間も歌いっぱなしの人がいるなどと聞くと、
     どんな趣味でもそういう人はいるのだから、不思議はないとも
     思うが、
     つい、その過剰さに何かがあるような気がしてしまう。

     多くの日本人は賛美歌を歌わない。
     ゴスペルもやらない。
     教会もない、コーランとも無縁、
     仏教の体験はあるが、お坊さんと一緒に
     声をあげてお経を唱和する人も少なくなった。

     そして、「カラオケ」を手に入れた。
     聞くだけでなく、自分で歌い、それを人に聞かせる喜びを知った。

     すると、その先に、「ひとりカラオケ」が出てくるのは、
     ごく当り前のことなのだろうか。
     子供が成長して、個室を欲しがるようなものなのだろうか。
     そうかもしれない。

     つまらないことを気にしているかもしれないが、
     「ひとりカラオケ」という言葉をはじめて耳にしたときの、
     「秘め事」を聞いてしまったような気持がまだ消えない。


     他人をいらない、と言っている。
     ひとりだけで楽しみたい、と。


     そういう気持は私にだってあるが、その種の時間は
     あまり人に言うことではないと思っていた。

     一人になれば、自分の下手な歌にうっとりとした顔をしてしまう
     かもしれない。
     乱れた声を楽しむかもしれない。

     中断したって、時には、笑ったって泣いたって、気にしない
     かもしれない。


     そういう姿は、見せたくないし、想像されるのも恥ずかしいし、
     黙っているものではないかと思っていた。


 ▼「主人公」の人物像が、はっきりしてきた。
  感じ方、人との付き合い、考え方も見えてきた。

     ところが、商売として当り前のように、
     「ひとりカラオケ」が用意され、それを使う人がいくらでもいて、
     誰も気にしていないらしいことに、軽く意表をつかれた。


 ▼さらけだす?、「ひとりカラオケ」は誰からも見えないものか。
  そうなら、設定は「隠しカメラ」と「モニター」にせねばならない。
  「ひとりカラオケ」の大繁盛を誰も気にしない。そのことに、
  「軽く意表をつかれた」、そう、「軽く」ね。
  「意表つかれる」のなら、「軽く」がいいね。



     人間関係に疲れたら、一人になる。
     大声で好きなだけ歌って、さっぱりする。
     また、人々の中に戻る。
     何がいけないのだと思う。

     しかし、洗濯でもするように、
     さっぱりといかない時もあるだろう。

     個室で歌ったからといって
     現状は変わらないのだから、
     気の持ちようでは、どうにもならないことは
     いくらでもある。

     そんな時、沢山歌って、歌い疲れて、
     個室に一人でいるひとの姿を思い浮かべてしまう。




     一人だから、助けはない。
     結局、ドアを開けて、
     外に出て、町を歩いて、
     自分で現実を生きるしかない。


     けれど、なにか掴まるものが欲しい。
     あと一曲。
     掴まって、立ち上がれる歌があったら
     歌いたい。

     歌えなくても、頭の中で
     その曲を轟かせて
     立ち上がりたい。

     ドアを開けたい。


 ▼まさに、「ドラマ」ですね。

  いま、18:13。
  もうすぐ、妻が美容院に出かける前に
  かけてくれた目覚し時計が、
  18:30で鳴るだろう。

  そろそろ、歯医者に行く準備をする。
  きょうは、遅れないように行く。

  タイトルは
  「微妙な問題 (1)」。

  続きは帰ってから書くことにする。


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