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2014年03月17日20:07

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■「山あがり」 と 「馬頭観音」

●2014年03月17日 (月)  晴れ

 ▼さて、内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』
  第三章に次のような「話」が載っている。

  ひとつは「山あがり」、もう一つは「馬頭観音」の話である。
  以下、「同書」72〜79頁を引用する。


 ▼(一)

  この章ではまずはじめに群馬県の山村、上野村の三つの話から
  記していこうと思う。

  上野村は私が東京と同じくらいの日数を毎年過ごしている村である。

  この村には昭和二十年代頃まで「山上がり」という仕組があった。
  もっとも私が上野村で暮らすようになったのは一九七〇年代に入って
  からのことだから、この話は村人たちから聞いたものである。


  上野村は山間地の水田のない村で、 かつての主要産業は養蚕であった。
  養蚕農家は稲作農家とかなり気質が違う。 その理由は自給自足に近い
  暮らしが不可能なところにある。

  養蚕で得た現金収入によって必要なものを購入する。それが養蚕農家の
  体質である。

  村には昔から貨幣経済があり、そうなれば金貸しがいたり、博奕(ばくち)
  がおこなわれたりするのが、現金収入のある村の特徴でもあった。
 
  さらに生糸は、年によって価格が大きく変動する商品でもあった。
  年どころではない、 月によっても、 日によっても価格が変動する。

  それは生糸が輸出産品であったことからもきている。
  江戸時代でもイタリアの生糸がうまくいかないことがあると、
  日本の生糸が値上がりしたりした。

  その結果、生糸の相場がよければ「大金」を手にすることもできる
  から、借金などもまた発生しやすいのである。


  実際いま私が住んでぃる上野村の家の元の持主の先祖も、一時期は
  金貸しをしていた。
  なぜそれがわかったのかというと、売買が成立し家を登記したとき、
  この家が大正時代に抵当に入つていたことに気づいたからである。

  かつて家を担保にして、金融機関から金を借りていた。
  なぜ金を借りたのか。村の人たちに聞くとすぐわかった。
  金貸しの原資として借りたのだろうと誰もが言う。

  こんな綱渡りのような金貸しが成立するのも、生糸とぃう商品作物を
  主たる経済基盤とした村の面の性格なのであろう。


  さて、こういう村だから、いまでいえば自己破産に追いこまれる人も
  生まれてくるのである。
  博奕や借金が原因した人もぃるかもしれないし、それ以上に大きかった
  のは生糸相場の暴落だろう。

  「山上がり」とは、そんなときにおこなわれる習慣である。


  
  いよいよ生活が立ちいかなくなったと感じたとき、村人のなかには
  「山上がり」を宣言する者がいた。
  「山上がり」は宣言し、公開しておこなうものなのである。

  宣言した者は言葉どおり山に上がる。
  つまり森に入って暮らすということである。そのとき共同体には
  いくつかの取り決めがあった。

  そのひとつは「山上がり」を宣言した者は誰の山に入って暮らしても
  よい、というものであった。

  つまり森の所有権を無視してよいということである。

  第二は森での生活に必要な木は、誰の山から切ってもよいというもの
  で、ここでも所有権を無視することが許される。

  第三は同じ集落に暮らす者や親戚の者たちは、「山上がり」を宣言した
  者に対して、十分な味噌を持たせなければならないという取り決めで
  あった。

  「山上がり」は生活が立ちいかなくなった人々に対して開かれている、
  共同体の救済の仕組だったのである。

  具体的には次のようにおこなわれた。
  「山上がり」を宣言した家族は味噌をもって山に入る。
  都合のよい場所をみつけて小屋をつくり、マキなどをそろえる。
  食料としてはかっての上野村の森には栗の木がいくらでもあった。

  一年分のデンプンを用意するくらいはわけなかったのである。
  栃の木も多かったからそれも食料にされたであろう。アクを抜けば、
  栃の実だけでなくドングリの実も食料になる。

  当時の山は炭焼が木を切り焼畑も営まれていたから、山菜も豊富だ
  った。

  茸もよく知っている者なら五月から十一月まで絶えることはない。
  山の沢ではイワナがいくらでもとれたし、ワナを仕掛ければ動物も
  とれた。

  かつての山は実に豊かだったのである。
  家族が「山上がり」をしている間に、元気な男たちは町へ出稼ぎに
  行った。一年後には少しまとまったお金をもって村に戻ってきた。

  それを待って家族は山を降り、借金を返すなどして元の生活に戻った。


  かつての豊かな山と、何でもできる村人の能力、最低限のものは提供
  してくれる共同体という三つの要素があってこそ、「山上がり」は成立
  しえたのである。

  それは昭和二十年代までつづいていた仕組であったが、いまでも上野村
  の老人のなかには、「何、困ったら山に上がれば一年くらいは楽に暮ら
  せるよ」と言う人がいる。

  多分、もう無理である。人工林がふえたことや、焼畑や炭焼が終った
  ことなどもあって、今日の山は昔ほど豊かではない。
  木を切らないから山菜もよく出なくなったし、切株がないから茸もそう
  は出ないのである。

  沢のイワナもめっきり少なくなった。それでも老人たちは何でもできる
  能力をもっているからまだいいが、私などが「山上がり」をしたら、
  たちまちゆきづまって里に降りてくるだろう。「山上がり」は悲惨な話
  ではなく、「何、困っても山に上がれば……」という、山村に暮らす者
  の気楽さとともに成立していたのである。


  キッネが人間をだましていた時代とは、 山の自然と人間との間にそう
  いう関係があった時代でもあった。人々は自然を信頼していた。そして
  自然を生きる糧にするだけの能力を人間たちはもっていた。

  そういう精神と能力を介してながめられていた自然とは、 どのような
  ものであったのだろうか。そして、その自然のなかで暮らす動物たちは、
  村人たちにどんなふうにみえていたのだろうか。

  はっきりしていることは、今日私たちがみている自然や動物とは違うもの
  だということである。
  とすると、そういう時代の自然と人間のコミュニケーション、自然と動物の
  コミュニケーション、はどのようなものだったのか。




  ▼(二)

  上野村には、他の山村と同じように、たくさんの馬頭(ばとう)観音が
  祀られている。

  かつては内陸輸送は馬の背に頼るのが普通だった。
  舟が使える川があるところでは河川舟運もあったが、山間地ではそれも
  むずかしい。

  江戸時代に入ると幕府は街道の伝馬(てんま)制度を整備させた。
  村人に交替で馬を連れて街道の中継地まで出てくるように強制し、中継地
  から中継地へとリレーで輸送する体制を整えたのである。

  ただしこの制度は村人の評判が悪かった。
  忙しいときに荷運びを強制されるのだから当然で、その結果は荷の減少
  という現実を招いた。

  荷を中継する度に、少しづつ荷が減っていってしまうのである。

  江戸中期になると、 伝馬制に代わって通馬(とおしうま)制が中心に
  なる。
  これは輸送業者によるもので、長距離を一気に輸送した。

  馬数頭を連れて、有料で輸送する。この方法だと運賃はかかるが速いし、
  荷が減ることもなかった。
  
 
  上野村には中山道の裏街道が通っている。
  中山道は、碓井峠のところが難所で、 一時期は中山道より上野村を
  通っている十石峠(じっこくとうげ)街道のほうが、 物資の輸送量が
  多かった。

  そういうこともあって、かつての上野村には多くの馬が輸送のために
  歩いていた。

  また村人も馬を飼っていることが多く、人口一千人くらぃの村に
  二百五十頭を越える馬が飼われていたという記録もある。


  その馬は、輸送の途中で荷崩れをおこしたりして崖から落ち、死ぬ
  ことがあった。
  そういう場所に馬頭観音を建て、馬を供養したのである。

  また馬が休む場所などにも馬頭観音が建てられ、こちらは馬の旅の安全
  を祈ってつくられた。

  馬頭観音は怒りの表情をしている。
  といっても、ほとんどの馬頭観音は石に「馬頭観音」と彫っただけなの
  だが。

  上野村には馬頭観音が数多く存在しているのだけれど、ある日村人の
  集まりで雑談をしていたとき、村の馬頭観音が話題になった。


  「何でつくったのかね」と聞いた人がいたので、私はここまで書いて
  きたような話をした。

  と、「それは違うよ」とある村人が言った。
  彼が伝え聞いてきた話は次のようなものだった。

  
  村の中、特に山の中には時空の裂け日のようなものがある。
  それをこの世とあの世を継ぐ裂け目といってもよいし、霊界と結ぶ
  裂け目、神の世界をのぞく裂け目といってもよい。

  異次元と結ぶ裂け目である。

  この裂け目は人間にはみえないが、動物にはわかる。
  そしてこの裂け目は誰かが命を投げ出さないと埋まらない。
  埋まらないかぎり永遠に口を開けていて、その裂け目に陥ちた者は命を
  落とす。


  旅の途中で馬はこの裂け目をみつける。
  ここで誰かが死ぬだろう。それは自分とともに生きてきた飼主であるの
  かもしれない。そう思ってみると、先を行く飼主は、いまにも陥ちそう
  である。

  自分が犠性になって飼い主を助けよう。
  そう思った馬は自らその裂け目にとび込む。

  馬が山で死ぬ場所はそういうところだ、とこの村人は言う。


  だから人間たちは馬に感謝し、その霊を弔って馬頭観音を建てた、と。



  この説は私が聞いたり読んだりしたことのないもので、居合わせた十人
  ほどの村人も誰も知らなかったから、この村人の周囲だけで伝えられた
  ものなのだろう。

     (以下、省略)



 ▼話は以上であるが、いずれも昭和になっても、まだ語り継がれていた。

  聞いた「話」を、次の世代に語り継ぐ。こんな習わしも、もう消えかかって
  いるようである。


  海に近いところで育った私は、山はすぐそばにあっても幼い頃に
  「馬頭観音」を見た記憶がない。

  旧・中山道の山道をぶらぶら歩いて、馬頭観音の石像を見たくなった。

フォト

         写真は柏原・馬頭観音 「摂津と丹波をつなぐ峠道



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