●2014年02月14日 (金)
▼『日記を読む愉しみ』というタイトルであるが、
「たのしみ」には、通常、「楽しみ」と「愉しみ」の二つの書き方があり、
これに似通った字義のものに、「快」と「悦」がある。
「楽」は・・・音楽、音楽を奏する。たのしい、たのしみ、好むの意。[漢]
「愉」は・・・気分をうつしかえる(愈)ことから、こころよいことの意。[漢]
▼また、
「快」は・・・心が晴れ晴れと開いて、よろこぶ意。こころよい。[漢]
「悦」は・・・心のわだかまりを取り去る。よろこぶことの意。[漢]
[漢]と付したのは、「角川漢和中辞典」記載の字義に拠る。
「楽」「愉」の二字は「快」「悦」の字とも結すび、互いに結んでは
「愉楽」となる。
愉楽・・喜び愉しむ。[漢]
たのしみ。[広]
快楽・・心地よくたのしい。欲望が満たされたときの感情。[漢]
気持ちよく、楽しいこと。[広]
悦楽・・喜び、楽しむ。[漢]
よろこび、楽しむこと。[広]
愉快・・気持ちがよく、たのしい。[漢]
楽しく、心地よいこと。[広]
愉悦・・喜び。喜び、たのしむ。[漢]
心から喜ぶこと。楽しみ喜ぶこと。[広]
[広]と付したのは、「広辞苑」記載の語義である。
▼辞書的な字義・語義は以上の通りであるが、体験的には
「本」や文章を読むことで、人それぞれに、これらの「漢字」の
イメージやニュアンスの違いを感じていると思う。
私の場合、「よろこび」や「たのしみ」について、もっとも
深い感慨を抱いたのは、『快楽』という「言葉」(漢字で表現された)
であった。
それは「かいらく」と読み、また「けらく」とも読む。
それを知ったのは、武田泰淳『身心快楽 自伝』であり、
「しんじん・けらく」と振仮名がしてあった。
▼この「本」の中に、
「身心快楽 如入禅定 ── 小説『快楽』について」
という文章があり、次のように書いてある。
ケラクというのは仏教用語で、快楽という字をあてるんですが、
人が普通に考える快楽とは意味がちがう。
「心身(しんじん)快楽(けらく)にして、禅定(ぜんじょう)に入るが如(ごと)し」
・・・、このケラクというのは、むしろ救いの快感、修行することにおける
快感といいますか、いわば普通の快楽をすることによって得られる快感といった
意味なのです。
▼「禅定」とは、と調べると
ぜんじょう −ヂヤウ【禅定】
〔仏教で〕
(A)精神を統一して、何ものにも妨げられない環境で真理を考えること。
(B)仏門に入り仏道を修めること。
(C)山伏などが、霊山に登り修行すること。
(用法)「禅定に入る」
新明解国語辞典 第七版 による
とある。
▼「法悦」という言葉もあるが、「心身快楽」とはなんと大胆で
あるか、と私は思った。
「エクスタシー」という言葉があり、西洋の宗教絵画・彫刻で
「法悦」を表現した作品があるが、それと比して、仏教の直截な
ものの言い方に驚き、また武田泰淳の「いわば普通の快楽をすることに
よって得られる快感といった意味なのです」という、「ケラク」の説明にも
感心した。
快活で、男性的だとも思った。
▼「たのしみ」や「よろこび」。
この「本」を読んだのがいつだったか、はっきりしないが、
私は何かを求めていて、楽しみになること、喜びをもたらすものに
飢えていたかもしれない。
「しんじん・けらく」は、「しんたい・かいらく」である。
そう思ったとき、迷いの中にも、なにか光があるような気がした。
(つづく)
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