mixiユーザー(id:1040600)

2014年02月08日02:02

242 view

■順不同(15) / 雪の日

●2014年02月08日(土) 02:02  雪

 ▼出窓で、ぽつぽつと屋根を打つ音がする。
  雨かと思い、カーテンを開けると、植え込みの木々も、芝生も
  あたり一面、白い雪で覆われていた。
  そこに、そぼ降る雨の雫が、白い雪を濡らしていた。

  夜9時のニュースで、「明日は東京、16年ぶりの大雪」と
  気象予測を報じていたが、画面には過去の大雪の映像が映し出されていた。

  その中に、「昭和26年、積雪33センチ」の映像もあった。

  インターネットで調べてみると、それは昭和26年2月15日のことで、
  私が淡路から、東京都墨田区堅川2丁目1番地に引っ越した小学校一年生の
  最初の冬だった。

  ・http://matome.naver.jp/odai/2135479556310842001
  ・http://www.jma-net.go.jp/tokyo/sub_index/kiroku/kiroku/data/64.htm

  その日、学校へ行ったのか、どうか覚えていないが、
  朝、ゴム長靴を履いて、深く積もった雪にズボッ、ズボッと
  脚をとられながら歩いた感触を、かすかに思い出すことが
  できるような気になる。

  どぶ板が雪に埋もれ、そばに置かれた黒い木製のごみ箱も
  上部だけがわずかに見えていた、と思う。

  そんな、ずっと昔のできごとに、妙に親しみのある
  懐かしさを感じる。


 ▼安西歳三・校訂『平生釟三郎自伝』名古屋大学出版会が届けられた。
  ・http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0277-7.html

  『日記』は現在、順次刊行中で、全17冊。1冊、21,000円(特価16,800円)。
  ・https://www.knu.jp/newslook/data_pop/110714034435.pdf#search='%E5%B9%B3%E7%94%9F%E9%87%9F%E4%B8%89%E9%83%8E%E6%97%A5%E8%A8%98'

  インターネットで調べると、古本の『自伝』の方は、2,800円〜3,780円。
  ・http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon_result

  他の「古本サイト」も調べる。
  ・http://www.furuhonn.com/index.asp?ti=1&tx=%95%BD%90%B6%E7%DA%8EO%98Y&ty=%81@%81@%81@%81@%81@%8C%9F%81@%8D%F5%81@%81@%81@%81@%81@¶m=0&ty2=&chkbid=
  ここで、偶々(たまたま)、「1,000円」(送料340円)の同書を発見。
  古本屋仲間では、「訳あり本」でなければ、ほぼ価格は標準化されており、
  「本」の保存状況により、目安の価格を若干、上下するくらいのものである。

  こんな事もあるンだと、すぐに発注し、きょう届いた。

  新本同様の、ほとんど一度も目を通されずに売却されたものだろう。
  堅牢な表紙を開けると、平成八年六月の日付けで、甲南学園から「謹呈」
  した旨の「あいさつ」も、そっくりそのまま入っていた。

  
フォト



 ▼読みかけの、横山春一『賀川豊彦傳』を横にやり、届いた『平生釟三郎自伝』を
  パラパラと読む。約500頁のうち、333頁が「自伝」部分、残りの150頁
  くらいが、「註」と「解説」に充てられ、実に詳細かつ充実した内容になっている。

  『日記』は大正2年から始まるが、『自伝』は明治3年のころの、父・田中時言
  (たなか・ときのり)が戊辰戦争から帰宅した「軍服姿」の印象から始まる。
  釟三郎が数え年5歳(満・4歳か3歳)の頃である。

  そして、『自伝』は明治天皇崩御の明治45年7月で終わっている。

  『自伝』が実際に書かれたのは、昭和10年にブラジルからの帰り、アルゼンチンで
  赤痢に罹り、重体の床についた時だ。
  『日記』が始まる大正2年以前、釟三郎の「手記」等のメモワールは存在している。
  しかし、『日記』以前の自分の半生を、釟三郎は、おそらく死も勘定に入れて、
 「手帳」に書き記した。これをもとにして出版されたのが「本書」である。


 ▼平生釟三郎は、慶応2年(1866年)に生まれ、昭和20年(1945年)に亡くなった。

  夏目漱石は、慶応3年(1867年)に生まれ、大正5年(1916年)に亡くなった。
  二葉亭四迷は、元治元年(1864年)に生まれ、明治42年(1909年)になくなった。

  福沢諭吉は、天保5年(1835年)に生まれ、 明治34年(1901年)に亡くなった。
  矢野二郎は、弘化2年(1845年)に生まれ、明治39年(1906年)に亡くなった。

  伊藤博文は、天保12年(1841年)に生まれ、明治42年(1909年)に亡くなった。
  大倉喜八郎は、天保8年(1837年)に生まれ、昭和3年(1928年)に亡くなった。

  新渡戸稲造は、文久2年(1862年)に生まれ、昭和8年(1933年)に亡くなった。
  賀川豊彦は、明治21年(1888年)に生まれ、昭和35年(1960年)に亡くなった。


 ▼『平生釟三郎自伝』には、直接、間接に、これらの人々に連なっている。
  これらの人たちは、ある人は「明治時代の人」と、またある人は「大正時代」の人
  のように思う。
  しかし、釟三郎は、これらの人が生きた時代を生き、「昭和の人」でもあった。

  たとえば「二葉亭四迷(長谷川辰之助)」とは、明治14年、「東京外国語学校」の
  「露語科」でいっしょになった。
  しかし、明治18年に学校は廃止、「露語科」は「東京商業学校」の第3部
  「語学部」に編入された。

  そして、釟三郎や長谷川があと1年で卒業という明治19年には、この旧制度の
  「東京商業学校」は廃校となり、新制度の「東京高等商業学校」に昇格することになった。

  そのため、旧制度の釟三郎や長谷川たちは、新たに「東京高等商業学校」に
  入学する必要があった。
  釟三郎と常に一番二番の成績を争っていた長谷川は学校を去り、釟三郎は
  平生家に婿養子に入ることで、学費をつくり、学校に残った。


  また、一方、この学制の変更は、もとの旧制度「東京商業学校」の1級から4級
  までを旧制度のまま卒業させ、明治20年に水島銕也らが、明治21年に各務鎌吉
  らが卒業した。

  そして、明治22年には卒業生は誰もおらず、明治23年に釟三郎らが、新制度
  「東京高等商業学校」の第1期生として卒業した。


 ▼平生釟三郎は、教育者として「甲南学園」の設立だけでなく、自ら「県立神戸商業学校」の
  校長を務めており、「商法講習所」「神戸商業講習所」を源流にする、「日本の商学・
  経営学」の歩みでもあった。

  そして、実務者としては、東京海上火災・三菱造船・日本製鉄のトップを務め、
  乞われては、戦時、「大日本産業報国会」会長さえ務めている。


 ▼「時代とは人々の連なりのこと」であり、「時代・事件」でいうならば、「米騒動」や
  「鈴木商店焼き討ち事件」や「川崎・三菱造船所大争議」や「関東大震災」が
  あった。


  平生と賀川は、約20歳、歳が離れている。
  平生からすれば、賀川は、明らかに「遅れてきた青年」であったろう。
  しかし、平生はその「青年」を援助し、一縷の希望や未来を見たのかもしれない。

  若輩の賀川とちがって、平生釟三郎の真骨頂は、理念だけでなく実地の成功
  としての、実業・実務にあった。


 ▼昭和39年3月、平生釟三郎が、かつて校長を務めた「県立神戸商業学校」に
  ゆかりある「県立神戸商業高等学校」や「県立星陵高校」と隣接した、今はない
  県立の「商科大学」を私は受験した。

  たしか、3月3日だったか(?)、その日、神戸も大雪だった。

  私は、商学や経営学を疎ましいと思いつつ、学校に向かって雪の坂道を、
  用心深く、転ばないように歩いた。


 ●これまでのあらすじ
 
  ■ きつねとかわうそ 目次 ■


2 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する