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2013年12月30日11:13

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■獺狐余話(7) 「あと千回の晩飯 (3) / 死と後悔」

●2013年12月30日(月)  晴れ

 ▼「あれっ、ベランダのこんな所に、腕時計がある・・??」
  「あっ、ゴメン。キツネくん、それ踏まないようにね、いま
   太陽の光を浴びさせているんだから・・」

  「太陽の光??、 あっ、これ。これ、前にナラトさんゆーとった
   ナオちゃんに買うてもろた時計?」
  「そう。おととしの今日だったか、タツの所に行くとき、
   大阪駅で御堂筋線に乗り換えようとしたら、『ちょっと、
   買い物があるから・・』と言って、ナオが大阪駅の北側の
   あれは、ヨドバシカメラ?、ビッグカメラ?だったかに寄ったん
   だよ」

  「オレ、その時は一緒じゃなかったモンね・・」
  「ああ、キミはいなかったけれど、ナオが『オトン、時計、
   買うたろか?』ゆーて、ソーラー時計、買ってくれたんだ」


 ▼「いい天気だねー。こーやって、ボーッとしていると、人生、最高だね」
  「へぇーっ、そんなモンですかね。オレなんか、キツネにもどって
   ニワトリなんか襲うとき、ゾクゾクして、生きてるって思うけど・・」

  「ナラトさん、日が陰ってきたきたですヨ。ちよっと、寒ぶい!」
  「じゃぁ、部屋にもどろうか」





 ▼『あと千回の晩飯』 

  長寿祝い

   この夏、私の住んでいる町の市役所から長寿祝いのバスタオルと金一封を
   下しおかれ、脳中、大疑問符をえがきながら頂戴した。

   疑問符というのは、長生きは是か非か、ということについて、前々から
   判断に苦しむところがあったからだ。

   一般には、いまでも長生きは是ということになっているらしい。
   だから、日本が長寿の世界一になったとれいれいしく報道され、
   きんさんぎんさんが時代のアイドルになり、右にのべたように七十歳を
   越えた私のような者までお祝いのバスタオルをもらう始末になる。


   しかしおめでたい存在は、本人が幸福であるのみならず、周囲にも幸福を
   ふりまくものでなくてはなるまい。

   これから五、六年たつと二十一世紀になるが、二十一世紀の日本では、
   勤労者の四人が六十五歳以上の老人一人を養ってゆかなければならない
   計算になるという。

   これは戦慄すべき計算だ。
   しかもこれは机上の予測ではなく、まちがいなく到来する事態だ。
   いったいどうするつもりかしらん。


   いや、そんな近未来の話ではなく、現在ただいま十数人の孫にとりか
   こまれて、大黒頭巾をかぶったジジババが福笑いしているような光景が、
   大老人をかかえた家庭の何十パーセントあるだろう。

   万事悲観主義の私は、三〇パーセントもあるかどうかと思う。


   そもそもその大老人が――ある老人病院のお医者さまの観察によると――
   「長命の人々は、みんな春風駘蕩(たいとう)、無欲恬淡(てんたん)の
   お人柄かと思ったら決してそうじゃなく、みなさんひとの頭でも踏み
   つけて人生を越えてこられたような個性の持ち主に見えますがね」だ
   そうだ。


   つまり、ひとに気をつかってばかりいる心やさしき人々は薄命で、
   ゴーツクバリが長生きするようだ。


   長寿の諸君子ごめんあれ。
   私もそのお仲間らしいからこんなことをいうのです。
   私自身はゴーツクバリの正反対の人間のつもりだが、かえりみれば
   時と場合で虫のいどころが悪ければ、どこまでも強情を張り通すことも
   あるようだ。


 ▼「ナラトさん、まだ『あと千回の晩飯』読むんですか?」
  「いゃ、新聞連載の3回目までは、web・KADOKAWA『立ち読み』に
   テキストが載ってるから・・」

  「いや、前回、連載の幕開け宣言が『文学的・哲学的』であったのに対し、
   今回2回目は、「長寿」ということを『現実的・社会政策的』に考えて
   みよう、という話だ」
  「この文章のどこにも、そんな提案、書いてないじゃないですか・・」

  「キミ、それはキミが文面、文字面だけを追っているからだよ。それと、
   山田風太郎が、何を気にかけているか、何に立ち止っているか、その
   ことに、キミが気づいてないからだよ」

  「へぇー、そんなんですねー。フツー、みんな、オレ、こんな事知ってるで
   お前ら知らんやろ、おせーたる、ゆうて書いとるン、ちゃいますか?」
  「もちろん、そんな『文章』を書いている人は多い。まあ、多くは、そう
   かもしれない。まぁ、そんなことは、どーでもいい。この『文章』は
   決して、文学的でも、名文でも、何でもない。しかし、山田風太郎が、
   ウソでなく、ほんとに思っておることが書かれている」


 ▼「ナラトさん、『きんさん・ぎんさん』だって、懐かしいですねー」
  「ほんと、懐かしいねー。1992年(平成4年)の新語・流行語大賞の
   『年間大賞』と『語録賞』にも選ばれたンだったねー」
  ・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%8E%E3%82%93%E3%81%95%E3%82%93

  「いまから考えると、これも『ウソみたい話』ねー、キツネくん」
  「えー、なんですか?『ウソみたいな話』って?」


  「キミ、気づかないかね。もし、今、『100歳・100歳』なんて
   CM流したら、どう思う?」
  「まあ、あんまり受けないと思いますケド・・」

  「それはどうてだろう、キツネくん?」
  「どーしてって、それは・・。それは、今わ『100歳問題』は珍しくも
   ないし、介護や痴呆や特養や、ゆーて、現実の問題になっとるから
   ちぁいますか?」

  「そう、これが書かれた平成6年10月(1994年)頃に『近未来』であったものが、
   19年、約20年たって、今年・平成25年(2013年)では『現実』に
   なったという事なんだよね」


 ▼「いま『100歳・100歳』のCM、TVで流したら、90歳の痴呆の
   お母さんを介護してる、60歳すぎたムスメさん、複雑な思い、すると
   オレ、思うな・・」
  「そうだろね」


  「あと10年も、こんな生活続くと思ったら、暗ろーなるやろナー・・。
   オレ、いまCM流すのやったら、『60ぽっくり、70ぽっくり、
   いつでもポックリ!』とゆーの、どうやろか、と思うわ」
  「なに、それ? 『60ぽっくり、70ぽっくり・・』って」

  「ナラトさん、わからへん? みんな「ぽっくり」逝くこと願ごう
   とるやろ、だから、60前の人は60歳でぽっくり、70歳前の人は
   70でぽっくり、とにかく、ぽっくり死にたい人は『いつでも、
   ぽっくり』って、ゆう訳や」
  「ふーむ、そうかねー」

  「こないだ死んだ、ナラトさんの好きな天野祐吉さん、あの人やったら
   ええ作品やて、ほめてくれると思う!」
  「うわー、そうだろうか?」



 ▼「でもね、キツネくん。キミ、大切なこと忘れてないかなぁ?」

  「えっ、なんですか? 大切な事って?」
  「一つは、それは『見送る側』の願望か、それとも『死にゆく人』の願望か?
   と言うこと。それと、もう一つは、『ぽっくり』がそれほどいいものか、
   それは疑問、と言うこと」

  「えー、なんですか、『見送る側』と『死にゆく人』って!」
  「つまり、『見送る側』は、たとえば、実親、義理親、その他、見送らねば
   ならぬ相手に、どう死んでもらいたという願望と、もうひとつ『死にゆく
   人』自身の、どう死にたいか、その二つは、本来、別々の問題であること。
   それと、大事なことの2番目、『緩慢な死』と『ぽっくりの死』について、
   世間に喧伝されているほど『ぽっくりの死』がいいものか、どうか、それは
  もっと、ゆっくり論議されるべき問題だと言うこと。
  その2点が大事なことだと思うよ」


▼「なんか、むずかしくなってきたなー。オレ、もと簡単な意味で、ゆーたん
  やけど」
 「うん、それでいいんだ。簡単に、ばっと自分の思うていること、それを言うこと
  それは、もっとも大切なことだ。そして、次に大切なのは、その自分の正直な
  気持ちや思っていることを、どうして自分はそう思うのか、考えてみることだね」



 「あああ・・、いよいよ、むつかしくなってきた。ナラトさん、オレ、
  疲れた!!」
 「ああ、ごめん、ごめん。私も疲れてきた。休憩しよう」


 「そうしましょ。そのほうが、ええと思うわ!」
 「タイトルの『死と後悔』までは行けなかったけど、参考図書の写真だけ
  アップして、あとは、『このまた続き』ということにしよう」


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