●2013年11月30日(土) 晴れ
▼一人なら、寝たが最後、
目覚ましでもないひには、
日の暮れまでも寝てしまい
きょうの天気もわからない。
目覚めて起きて、一人なら
興赴くところ、忘我の果て
これまた、朝啼く鳥の
声知らず・・・。
▼いま、12時をまわり
12月に突入。
どうでもいいことに熱中して
面白がったりして、一人で
遊んでいる。
大したこともないのに、
matsubiskiさんに、大仰に思わせてはならないので、
「日記」を書くことにした。
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▼音楽音痴が「きょうの一曲!」などと、
自分の好きな音楽や、思い出のある楽曲を
集めるだけなら、いざ知らず、
「音楽紹介」みたいな形で取り上げようとすると、
一番困るのは「言葉の壁」である。
▼私は、音楽をただ音や声として聴きとり、
快かったり、胸に迫ったり、うっとりしたり、
沈思したりする。
また、音楽としては決してすぐれていなくとも、
私に過ぎた日を思い出させたり、しみじみする楽曲なども
自分の音楽ページに集めている。
▼しかし、集めたものを人目にさらし、
いっしょに聴いてほしいなー、などと思ったりすると、
楽曲の説明に窮する。
「音楽の知識・素養」がないからである。
▼なかでも、初めて聴いた音楽で、「いいなー」と思い、
取り上げるときは、殊にそうである。
私は「音楽音痴」と自称しているが、これは幼いころ
父親に「お前は音痴だなー」と言われたのに起因している。
しかし、音楽に限らず、よくよく考えてみると
そのほかの事についても、ほとんど、何もよく知っていない
ことに気づく。
▼音楽ではないけれど、文学でもそうである。
私は、この「日記」で、ある作家の文章を
「へたくそだなー」と思ってそのことを「日記」に書いた。
その作家は、私が知らないだけで、「本」を読む人なら、
たいていが知っていて、「××賞」ももらっている作家だそうだ。
そんな事も知らなかったので、いただいたコメントから
「知らないのは、自分だけ」という事を、かみしめて
知った。
▼でも私は、そのあと、その作家のその文章については、
いくら読んでみても、また、その文章がいかに「実験的」で
あろうが、やっぱり、
「へたくそだなー」という評価を変更することが
できなかった。
「コメント」の中には、それとなく、
「もっと、よく調べ、知識を身につけてから
ご自分の意見は書きましょうね」と、
それとなく「助言」みたいなものも、いただいた。
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▼何か迂遠な話をしているようだが、私としては
たとえば俳句などで、名前を伏せて「選」をするように
「音楽」であれば、ただ、私が聴き、
「本」であれば、ただ、私が読んだ、
その限りのことで、私が感じたものを、私が評価する。
必要な知識・素養に欠けようと、自分の
好き・嫌いを、作者や歌い手や作曲家の「名声」や
「肩書き」で曲げることはできない。
ただ、それだけである。
というより、何も知識も素養もないので、
私には、それしかできない。
▼もう随分前、今の「YouTube」と同じようなサービスを
「mp3」がやっていた。
そのときも、今みたいに、全然知らない世界のアーティストの
音楽を、それこそ、ジャンルもかまわず聴きまくった。
「mp3」には、当時、マドンナはじめ、アーティスト自身が
登録し、自分の楽曲を流していて、一方では、素人・アマチュア
バンドも登録していて、混交玉石だった。
誰がどんな人かわからないし、英語で書いてあるし、
とにかく、片っ端から聴いた。
判定は速い。5秒もあったら、「ダメ、次!」という
具合で、1日、200曲、あるいは、それ以上
聴いた。(たった5秒のものも含めて)
そうして、気に入るアーティストや楽曲を探した。
そして、「自分用のコレクション」を放送局にして
いくつかのチャンネルで流した。
あるときは、私の開設した局のうちのひとつが、
何10万局かある全放送局の人気度で、100位内に
入ることがあった。
▼そんなことをやっているとき、
私は、「ダイアナ・クラール」いう人の音楽に惹かれた。
また、「ノラ・ジョーンズ」の音楽を聴いてうっとりした。
そして、自分の放送局で、彼女たちの音楽を流した。
が、英語の弱い私は、楽曲を選んで流すだけで、
「ダイアナ・クラール」についても、「ノラ・ジョーズ」も、
どんな人で、どんな作評価がされているのか、
私は全く知らなかったし、そんなことはどうでもよかった。
▼ところが、ある日、西神中央の喫茶店に入って、
しばらくすると、聞き覚えのある音楽が流れてきた。
それは「ノラ・ジョーンズ」であった。
また、ツタヤで「ジャズ」のCDを借りていた時、
私はそこに「ダイアナ・クラール」を発見した。
▼そんなことが、あったものだから、息子に
そのことを話すと、なんでも、2人のアーティストは
「×××賞」も受賞しているとのことだった。
私は、まるで無名のアーティストの中から、「新人」を
発掘したような喜びを、そのとき感じた。
しかし、それは、「素晴らしい音楽は私みたいな『音楽音痴』さえ、
感動させるという事実を、証明したにすきぎない。
▼話は冗長で、長くなり、息子が聞いたら、
「それって、自慢話か!」と、突っ込みを入れて
きそうであるが、今回、「きょうの一曲!」で取り上げた
「 Andrea Bocelli 」が、全くそうだった。
ラテン音楽を「YouTube」で検索し、何か
いい音楽はないかと、私は探していた。
すると、たまたま『ベサメ ムーチョ(訳詞付) /
Andrea Boceli』というのがあった。
・
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=EA1B_zsZcR0
▼「べサメ・ムーチョ」は流行ったことがあり
私もよく知っている楽曲で、これを唱っている歌手の
喉の良さに、惚れ惚れとした。
この男声の音域を「テーノル」とか何とか言うのだけれど、
私は、小学校のテストで覚えた、「ソプラノ」とか「アルト」とか
そんな「男声・女声」と「高音・低音」の組み合わせの
音楽用語が苦手である。
なに語で歌っているのか、何と歌っているのか、
さっぱりわからない。
でも、感動する。
それだけである。
▼たとえ、訳詞がそえられていても、
その訳が適切なのか、正しいのか、
私には、わからない。
ただ、訳詞が「日本語」の「詩」として
いいか悪いか、ぐらいは少しわかる。
▼そんなことで、
「べサメ・ムーチョ」を歌っているこの人は「Andrea Boceli」
と書いてある。
(「Boceli」と「l」が、ひとつ足りない)
この「Andrea Boceli」で、「YouTube」に登録されている
ほかの歌がないか、私は探した。
でも、この名前、何と読むんだろう。
この名前を日本語のカタカナ表記にしたら
どうなるのか、それさえわからない。
「アンドレア・ボッセリー」なんだろうか・・?
「ヴィーナスの誕生」だったか、あの絵は、
「ボッチチェルリー」と習ったような気がするが、
長母音や促音の今風表記なら、学校では「ボッチェリ」と
いうのだろうか・・・?
などなと、思いながら検索した。
▼「Andrea Boceli」で、「youTube」を検索すると、
「Andrea Boceli」と「Andrea Bocelli」という
二人の歌が検索で出てきた。
・
http://www.youtube.com/results?search_query=Andrea+Boceli+&sm=12
「l」が一つ余分にある人のものを聴くと、これが
また、いい。
それで、「きょうの一曲!」は、もし「Andrea Boceli」と
「Andrea Bocelli」が同一の人であれば、この「べサメ・ムーチョ」
と、他の3曲で合計4曲、紹介できると思った。
▼しかし、もし、「Andrea Boceli」と「Andrea Bocelli」が
別人だったら困るなー、と思ってウィキペディアを調べた。
・「l」ひとつ
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?search=Andrea+Boceli&button=&title=%E7%89%B9%E5%88%A5%3A%E6%A4%9C%E7%B4%A2
・「l」ふたつ
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5%3A%E6%A4%9C%E7%B4%A2&profile=default&search=Andrea+Bocelli&fulltext=Search
※二人が同一人物であるか否かは、あとで、次のような事から
判明した。
それは、「ベサメ ムーチョ(訳詞付) / Andrea Boceli」のページ
・
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=EA1B_zsZcR0
の「概要」モードで、『アーティスト Andrea Bocelli』と表示されて
いる。
このことからも、「投稿者」の綴り「Andrea Boceli」は誤りであり、
正しくは「Andrea Bocelli」であることが判明した。
▼「l」ふたつ、の方に「アンドレア・ボチェッリ 」とカタカナ表記があるので、
そちらに飛んでみた。
・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%AA
「アンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli 、1958年9月22日-)は
イタリアのテノール歌手。」とあった。
また、
「ボチェッリのために作られた『コン・テ・パルティロ』は、後に
タイトルと歌詞の一部を英語に改めて『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』
としてサラ・ブライトマンとデュエットしたバージョンが発売され、
1500万枚以上のセールスを記録した。」
とも書いてある。
▼私は、またしても、「ダイアナ・クラール」や「ノラ・ジョーンズ」を
発掘した時と、同じ喜びと感動を得た。
そして、
「ふむ、ふむ。ボチェッリのために作られた『コン・テ・パルティロ』
だって。私も、この中ではこれが一番いいと思ったけど、やっぱり
そうなんだ!」
と、ひとりごちていた。
ついでに、「コン・テ・パルティロ」も見てみた。
・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AD
▼な、なななな、何と、次のように書いてあるではないか。
『ボレロ風のリズムがエネルギーの充溢を感じさせる力強い曲である。
原題のイタリア語タイトルの「コン・テ・パルティロ」(Con te
Partirò = With you I'm going to leave)とはイタリア語で
「君と共に、(ぼくは)旅立つ」という意味で、英語の「グッドバイ」と
いうタイトルゆえにイタリア以外では誤解されやすいが、実は別れの歌
ではなく旅立ちの歌である。
したがって結婚式で歌われることも多いが、これは決しておかしなこと
ではない。
ドイツではKarel Gott - Zeit zu geh'nという。』
▼英語も弱く、イタリア語のさっぱりわからぬ私は、
タイム・トゥ・セイ・グッバイ(Time To Say Goodbye)
あぁ、早や、いとまごいの時がきた。
私は静かに旅立つ。
ああ、君よ。
向こうの岸のほとりにて、
また、会うこともあるだろう。
でも、いまは
いとまごいの時・・・
なんて、適当に「お別れの歌」にしていたのだ。
▼もし仮に、matsubiskiさんが、こんな事を書いている
雑駁な私の「日記」を、先に読んでおられたとしたら、
あんなに名文な「アンドレア・ボチェッリ 」を書かれずに、
「日記」を読んでうんざりしながら、
ひょっとして、イタリア語の「基本中の基本」についてコメントが
いただけたのかも・・・と思ったりしたのです。(笑)
matsubiskiさん、
そういうことでした。
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