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2013年11月26日16:05

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■「鶴見俊輔」について

●2013年11月26日(火)  晴れ 強風

 ▼最近、昼間寝ていることが多い。
  起きていることもある。

  朝の連続ドラマ『ごちそうさん』を観ながら
  朝食を済ませ、それから寝る。

  午後3時か、4時まで寝ると、
  昼食を抜く勘定になる。

  朝ドラのあと、起きている場合もある。
  眠くないときである。
  妻が出勤日でない日は、
  「アンタ、寝えへんの?」と言って
  私を寝かしつけようとする。

  それは、私の健康管理のためである。


 ▼きょうは、朝ドラのあと、2時間ちょっとで
  目が覚めた。
  何か見ていた夢が終わったところで
  目が覚めた。

  「あれっ、もう起きたん!」
  「うん。目が覚めた」


 ▼自分の部屋で、ウィキペディアの「鶴見俊輔」の
  項目を、ほとんど全部を書き写す作業をする。

  「書き写す」と云っても、コピー&ペーストで
  貼り付けるだけだから、1文字1文字入力するのと
  違って楽である。

  ウィキペディアのページに書いてあるそのままを
  自分用に改行を多くし、段落やスペースもたっぷりとって
  読みやすく、作り直す。


 ▼「うわっ、煙たい!」と妻が部屋に入ってきて、
  「アンタ、寒うないの?」と聞く。

  「ああ、ちょっと寒いけど・・」
  「だったら、そこ、閉めたら・・」

  「ああ・・」と言って、机の横の北側の窓の
  ガラス戸を閉める。
  煙草の煙が逃げるように、少しだけ窓を開けているが、
  隙間風の寒さが、そこからやってくる。


 ▼「アンタ、昼食べへんの?」
  「うん、食べへん」

  「へぇー、頑張ってるやないの」
  「うん。こないだから、1.5キロ減ったからナ」

  「昼抜くのが一番みたいや」
  「そう、そうやったら、ずーっと食べんとき」
  と言って、妻は笑う。

  
 ▼パソコンの手を休めて、台所に行き、
  インスタント・コーヒーを淹れる。

  脇に、朝食の腸詰ウィンナーの残りが
  皿に残っている。
  手で、ちっとつまんで、口に放り込む。

    ・・・・・・・

  お昼を回ってから、妻が居間の方から、
  声をかけてくる。

  「アンタ、お腹減ってな〜い?」
  「ああ、大丈夫!」
  と、私は大きめの声で返事する。


 ▼台所で、妻がクスクス笑っている。

  「どないしたん?」と聞くと、
  「いや、べーつに!」と言う。

  立って台所に行くと、
  妻は、テーブルの上の腸詰の皿を見ていた。

  2、3本残っていたウィンナーが
  全部なくならず、1本だけまだ残っているのが
  可笑しかったようだ。


  /////////////////////////  /////////////////////////


■「鶴見俊輔」について



 ▼「鶴見俊輔」をウィキペディアで調べると、次のような記述がある。
  少し長いが、そのまま引用する。

  <経歴>

   鶴見祐輔の長男として東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。
   外祖父は後藤新平。
   俊輔という名は父親の命名で、伊藤博文の幼名による。

   厳格な母親に反撥し、東京高等師範学校附属小学校3年生のとき
   近所の中学生と組んで万引集団を結成。

   本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を
   盗むといった悪事を繰り返す。

   このためクラスでは除け者にされていたが、
   このときただ一人鶴見を庇っていた同級生が永井道雄だった。

   しかし鶴見の側では永井をいじめる態度に出て、大塚駅の前で
   こうもり傘の柄で永井の足を引っ掛けて水溜りの中に倒し、
   その後で再びクラスから村八分にされることを恐れて
   翌日は早くから登校し、クラスの世論を鶴見側に有利に傾けるため
   事実の捏造をした。


   肉体的に早熟だったため、小学生時代から性的な思念が頭から離れず、
   授業中は「パンツの中でペニスが右側に入っているか、左側に入って
   いるか」を気にして上の空だった。

   10歳をいくつも出ない年齢で歓楽街に出入りし、
   女給やダンサーと肉体関係を持った他、自殺未遂を5回繰り返して
   精神病院に3回入院させられた。

   当時、同校の生徒800人のうちただ1人の不良少年であることが
   誇りだったという。



   「平常点はいつもビリに近いところにいた」ため、東京高等師範学校
   附属中学校に推薦されず、府立高等学校尋常科に入学するも、
   武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を
   学校のロッカーに置いていたことが発覚したため、入学後1年1学期で
   同校を退学になり、東京府立第五中学校に編入学するも、やはり中退。


   俊輔の将来を心配した父から「土地を買ってやるからそこで養蜂場を
   経営して女と暮らせ」と言われたこともあるが、最終的には父の計ら
   いで1938年(昭和13年)に単身渡米し、同年9月、
   マサチューセッツ州コンコードのミドルセックス・スクールに入学。

   全寮制の寄宿舎で9ヶ月間の勉強を経て大学共通入学試験に合格。
   16歳のとき身元引受人アーサー・M・シュレジンジャー・シニアの
   勧めでハーヴァード大学に進学、哲学を専攻。
   ホワイトヘッドやラッセル、クワイン、カルナップに師事。

   大学では成績優秀で、1000人いる同級生の中の上位10%に
   入っていたため飛び級コースに入る。

   18歳の時には、当時働いていたニューヨークの図書館で
   ヘレン・ケラーと一度会い、言葉を交わしている。

   この頃、ハーヴァードの経済学講師の都留重人と出会い、プラグマ
   ティズムを学ぶことを勧められる。
   都留は生涯の師となった。


   1941年(昭和16年)12月8日に日米開戦。
   1942年(昭和17年)3月末、大学の第3学年前期が終わったとき
   無政府主義者としてFBIに逮捕され、東ボストン移民局留置場を
   経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。

   この間、後期はまったく授業に出られなかったが、収容所から
   提出した卒論が受理され、19歳のとき「Summa Cum Laude」
   の成績でハーバードを卒業。

    ※(4)「Summa Cum Laude」
      ラテン語で、最上位から5−30%程度の成績での卒業生で
      あることを意味する。


   1942年(昭和17年)6月、日米交換船「グリップスホルム」と
   「浅間丸」に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国。

   ただしこれは強制退去ではなく、送還か収容所送りかの選択を迫られて
   鶴見自身が決めたことであった。


   収容所にとどまれば食事の心配がないのに敢えて帰国を選んだ理由に
   ついて鶴見は「(収容所にとどまれば)敗戦後の日本に帰るときには
   大変に後ろめたい思いをしなきゃいけない」「アメリカに残っていたら、
   収容所といえども飯は結構困ることないんだよ。イタリア人のコック
   だし。私にとって(収容所の)飯は旨かったんだよ。だけどそれを戦争
   の終りまで──負けることは判ってる──終りまで、これを食い続ける
   のは悪いなという気がしたんだよ」と説明している。


   第二次世界大戦中には結核持ちであるにもかかわらず徴兵検査に合格
   したため、徴兵を避けるために海軍軍属に志願し、1943年
   (昭和18年)、インドネシアのジャワ島に赴任。

   主に敵国の英語放送の翻訳に従事。1944年(昭和19年)12月、
   胸部カリエスの悪化により帰国。
   敗戦を日本で迎えた。



   戦後、海軍を除隊後に、姉鶴見和子の尽力で、和子と丸山眞男、
   都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧とともに7人で
   「思想の科学研究会」を結成して雑誌『思想の科学』を創刊し、
   同会で『共同研究 転向』(上・中・下、平凡社、1959〜1962年)など
   思想史研究を行う。


   アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、
   都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人と
   される。

   京大助教授時代、1951年(昭和26年)にはスタンフォード大学から
   助教授として招聘されたが、原水爆反対運動に関与したことが神戸市の
   米国総領事館から問題視されて米国への入国を拒否され、その後一度も
   渡米していない。


   60年安保時には、政治学者の高畠通敏とともに「声なき声の会」を
   組織して岸内閣による日米安全保障条約改定に反対。
   ベトナム戦争期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として
   「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成し、代表に作家の
   小田実を迎えて、自身もその中心的な人物として活躍した。


   鶴見自身はマルクス主義者ではなく、「私は日本にいたときから
   クロポトキンを一生懸命読んでいた。クロポトキンにはマルクスに
   対する偏見がありますから、それが、私がマルクス主義者にならない、
   一種の予防注射になった」と述べている。

   反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して
   「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、
   ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌に
   なっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。
   鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している。


   しかし近年は、「私は参政権を持ってから、共産党だけに投票してきた
   ことは確か」と、共産党支持の姿勢を明確にして、九条の会の
   呼びかけ人にもなっている。




  <家族>

   父は前述の通り政治家鶴見祐輔であり、戦間期の日本を代表する
   親ソ派政治家だった。
   後藤新平は母方の祖父、政治家安場保和は曾祖父にあたる。

   社会学者である上智大学名誉教授の鶴見和子は姉。
   鶴見直輔は弟。

   英文学者・翻訳家の横山貞子は妻。
   息子の鶴見太郎は早稲田大学文学部教授。

   『ナマコの眼』等で知られる人類学者でベ平連の「外務省」、
   「英語使い」と呼ばれる有力活動家だった鶴見良行は父方の従弟。

   獄中転向で有名な元日本共産党委員長の佐野学は母方の叔父。
   共産党系演劇人でインターナショナル訳詞者の佐野碩と、
   武装共産党時代の党指導者だった佐野博は母方の従兄。

   講座派の法学者で日本平和委員会会長だった平野義太郎は母方の
   親戚(安場保和の孫娘の婿)。



  <エピソード>

   筑摩書房の編集者松田哲夫によると、鶴見は専門の哲学はもとより、
   「マンガやジャーナリズム、近代史について、とてつもない知識」を
   持っていたという。

   『ちくま日本文学全集』の編集作業の際、鶴見が5歳の時からの
   膨大な既読書の内容をすべて覚えており、「古典的名作だけに
   とどまらない、例えば赤川次郎作品すべて」にまで及んでいることが
   判明した。


   これには名だたる読書人揃いの他の編者たち(安野光雅、森毅、
   井上ひさし、池内紀)も唖然としたという(松田著『編集狂時代』より)。


   「人の下積みになれ」と説く母への反撥もあり、2年半に及ぶ米国
   留学時代には学校の成績に大変こだわる面があったことを自ら認め、
   これを「一番病」と名付けて自己批判している。


   鶴見によると、この「一番病」を攻撃することが長らく自らの戦略
   となり、物を書いていく源泉になっていたという。

   その結果として大衆文化に着目し、大衆文化の表現形式として漫画を
   重視し、漫画評論の先駆けの一人となった。

   漫画の中では山上たつひこの『がきデカ』を高く評価し、
   「あの『がきデカ』というのがみんなに読まれているうちは、
   ああ、日本人にはこういう人がいるんだな、日本ってこんなんだな
   という自画像をもっているうちは、まだまだ安全だと思っているん
   ですよ。

   「正義のために戦え」とか、「聖戦」とかいうふうにして戦争の
   態勢をつくるところまでにはまだ一歩あるなという感じがするの
   です」
   「こういうふうに金とセックスだけを追い求める人間が活躍する
   わけでしょう。ああ、日本人はこうなんだな、こういう人間がたくさん
   いるんだなと思って大人になることがいいんです。日本人は神の子で、
   万邦無比の国体なんだと思って海外に出ていったら困るんですよ。
   『がきデカ』を読んでいれば、ちがった人間になるんじゃないかという
   希望をもっています」と述べている。



   テレビ番組『ハケンの品格』がお気に入りで、軍属時代に翻訳と
   新聞発行を一手に引き受けていた自分と、同番組で描かれていた
   派遣社員とが重なって見えると語っている。


   敬虔なキリスト教徒であった母親への反撥,戦争推進を主張していた
   一部の僧侶や牧師への不信感から、宗教に反感を持っていたが、
   仏教徒の文化人との交流の中で仏教に理解を示すようになり、
   「かくれキリシタン」ならぬ「かくれ佛教徒」と自称するようになった。



  <批判>

   蓮實重彦・上野昂志・スガ秀実らは座談で、鶴見が左翼系知識人に
   すりよりながら、いつも左翼にならないこと、また蓮實重彦は
   「動体視力」つまり映画や文学を語る時の視力が鶴見には決定的に
   欠けており、それゆえ、鶴見の文化評論がことごとく無内容なものに
   なっていると批判している。





   <略年譜>   省略



   <著書>    省略



   <映像>

    ・DVD『鶴見俊輔みずからを語る』(テレビマンユニオン)(編集グ
     ループSURE)


   <脚注>   下記のほかは、省略

    ※(4)「Summa Cum Laude」  
       上述

    ※(9)
       府立高等学校尋常科で同期だった遠山一行は、鶴見と思しき同級生に
       ついて「ある日突然──と私には見えた──中学の同級生が学校を
       やめてしまったことがあった。

       その男は頭がよく勉強もできたが、かなり変ったところがあって、
       たとえば試験の答案を、わざわざ四十点とか五十点とかに仕立て
       上げるために、正しい答えを消しゴムで消したりしておもしろ
       がっていた。

       そして日ごろ反りの合わなかった教師をなぐって、学校をやめたの
       である。(中略)

       その男は戦後社会評論家として登場し、名をなした」
        (『遠山一行著作集』第4巻所収「集団の行為」p.196、新潮社、
         1987年(昭和62年))
       と回想している。



   <参考文献>

    ・新藤謙 『ぼくは悪人 少年鶴見俊輔』 東方出版、1994年9月。ISBN 4-88591-397-7。
    ・原田達『鶴見俊輔と希望の社会学』世界思想社
    ・ローレンス・オルソン『アンビヴァレント・モダーンズ』新宿書房
    ・『KAWADE道の手帖 鶴見俊輔 いつも新しい思想家』河出書房新社
    ・上原隆『「普通の人」の哲学ー鶴見俊輔・態度の思想からの冒険ー』毎日新聞社



   <関連項目>

    ・思想の科学
    ・ハーバード大学に関係する日本人の一覧

    ・編集グループSURE



   <外部リンク>
    ・原田達『鶴見俊輔』 - Yahoo!百科事典
     


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