●2013年01月21日(月) 曇り、帰るころ雨
▼「あんた、何を言ってるの! お母さんじゃないよ、お父さんよ」
「えっ、そうだった?」
「当り前よ、お母さんの13回忌はおととし済んだじゃないの」
「僕はてっきり、お母さんの法事と思っていたけど、勘違いか?」
宮崎に発つ日、私は、早朝、日記に「義母のこと」を書いた。
そのことを妻に言うと、妻は、あきれたような顔をして、
きよう行くのは、義父の13回忌であることを告げ、
おおむね、上記のような会話があった。
調べて見ると、2011年09月11日の日記に「十三回忌」というタイトルで
義母のときのことを書いている。
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http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1773739022&owner_id=1040600
▼今回は、私たちがホテルにチェックインすると、義妹たちがやってきて、
部屋で、昼から夕方まで、まさに姦(かしま)しい女3人のおしゃべりが
始まった。
話題は、夫や子供や孫のことが主で、それぞれの家族の、前にあったとき
以降の消息である。
夜、地元の次女の義妹が家にもどり、三女の義妹と私たちは、『よんしゃい』
に行った。
この店のことは、日記「茂くんのこと」で書いた。
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http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1523340838&owner_id=1040600
▼翌朝、ホテルに迎えに来てくれた義妹たちと落ち合い、姪の車で、
西都市都於郡町の
黒貫寺に向かった。
途中、車がパンクするというハプニングを除けば、「声明(しょうみょう)というのか、
地声の籠るような、それでいて低く朗々とした読経に、私は軽く眠った」と
書いた、おととしの義母の時と同じように、無事、執り行われた。
おととし9月は暑かったように思うが、寺から墓所のある「
座論梅」に出で、
墓に備え付けの、水汲みバケツには、厚さ5ミリほどの氷が張っていた。
▼義父は、私の父よりも一回り上の申年であるから、明治41年生まれ。
私が結婚したのは、24歳のときであるから、義父が私を見たとき、
どんなにか頼りなく見えたことだろうと思う。
妻の実家に家族を連れて帰った時、義父は、宮崎の政界や経済界の話を
した。
地方都市の県庁所在地の宮崎は、小さな町だ。
知人・友人のつながりをたどると、すぐ「友だちの友だちは、みな友だち」に
なる町だ。
義父は、当時、もう警察の署長を退き、交通安全協会の理事みたいな所に
天下っていたが、労働組合のことに全身どっぷり漬かっている私が、
なおさら、不安定な存在に見えたことだろう。
▼私の知っている人を引き合いに出し、誰それは銀行の支店長になった、
誰かは、東京のどこそこの会社の課長になった、と彼らと競わせるように
煽るようなことを、義父は、言った。
しかし、それは娘を通じての、ムスメ婿への「心配」であった。
あるとき、義父は私に、「もういいかげんに、労働組合のことは辞めんと
いかん」と言ったり、「強面したら、いかん」と言ったりした。
鴨居には、警察時代、ピストルの射撃競技の大会で優勝したときの義父の
写真が飾ってあった。
美男子で、眼光炯炯とした目が印象的だった。
▼孫たちが家の中を走る回ると、「こらっ、静かにせんと」と力を抜いて
叱った。
また、義母や私たちが夜遅くまで話していると、先に休んでいる義父は
「もう寝らんといかんが・・」と言った。
たいていは、そんな風に、「心配」した。
そんな「心配」の仕方も、慈愛に相違ないことを、いま実感で感じている。
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