●2013年01月17日 (木) 晴れ
▼「あれっ、あの人知ってるわ! 誰だつたかなー?」
と私が言う。
テレビの画面には、朝5時からはじまった三宮・東遊園地での
「1・17のつどい」の模様を映し出していた。
岩手・陸前高田に分灯された「希望の灯り」が神戸に里帰り
したニュースである。
陸前高田の代表と神戸の代表と、その二人の間をとりもつように
真ん中にいる男の人だ。
妻が「堀内正美じゃない。うちにも買物に来るよ」
と、いう。
「ほりうち・まさみ?、知らんなー、そんな名前」
「『純と愛』の愛(いとしクン)のお父さんよ!」
「あっ、そうや。お父さん役の人や!」
▼朝、妻と、そんな会話をした。
「
堀内正美」、プロフィールには、確かにそんなことが
書かれていた。
「へぇー、神戸に住んでいたんだ・・・」
と思った。住んでいなければ、地震に会うことも
市民ボランティアネットワーク「がんばろう!!神戸」を結成
することもなかったろう、と思った。
▼「偶然」というか、たまたまというか、
自分の意志や努力ではどうにもならないものを
人は「運命」と言ったりする。
「運命」などいう古臭い概念は
いまどきは流行らない。
しかし、どんな親の元に「私」という
現象が始まるか、というその根源的な「偶然」
あるいは「運命」に始まり、
物語の幕が下りるまでの間、人は「偶然」や「運命」に
出会う。
思うのは、「偶然」や「運命」がどんなものであろうと、
それを「ついてないなー」とか、それらのせいにしたり、
それらのために、自分がつまらなくならないことだ。
できれば、物語は立派でなくても、面白い「話」の方がいい。
「偶然」や「運命」は、それはそれで、そんなものだと
引受ける方が、物語は面白そうだ。
▼仕事が終わって、土曜日が返却日になっている「本」を
返しに行く。
返すまえに、コピーをとる。
「子規全集」は重い。
夜道を歩いていると、舗道のところどころは
ほんのすこしのゆるやかな隆起のある所があり、
足をとられて、つんのめらないように
用心する。
18年前のやるゆかな隆起は、きっと
このまま続くのだろう。
舗道脇の電信柱でも、やや斜めになっていて
それでも倒れくることはないものは、
斜めのまま立っている。
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