●2012年12月30日 (日) 雨
▼きょう、朝、真剣に叱られた。
「アンタなんか、ほんとに何も分かってない!
邪魔や、のいて。せんでええ、私がする。
アンタ、あっちいって!!」
私もムカッときて、
「する、言うとんのに、なんでしたらアカンのや!」
私は自分の部屋の掃除をした。
どこもかしこも、真っ黒けの、真っ茶色。
一年の垢が溜まっている。
グィーン、グィーンと掃除器で、カーペットを
吸う。毛足に掃除器の吸いついた筋目どおりの
跡形がつく。
気分がよくなって、私はどんどん掃除をする。
▼今晩は、博多から帰って来る長男と
次男の心斎橋の店に行く。
もう、なんだか年中行事みたいになった。
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●2012年12月31日 (月) 綿雪舞う
▼昨晩は、博多から帰ってきた長男と、大阪・心斎橋の
次男のやってる『BAR Stache'S』に行ってきた。
毎年、暮れの30日は次男の店に行く。
2、3年もすればつぶれるか、と思っていたのに、もう8年が過ぎて、
9年目になっている。
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▼私は自分が小さい頃、小学3年生(昭和27年)だったが、東京での暮らしが
成り立たず、私と妹は、母の実家の淡路の祖母の家に預けられた。
父と母は、当時、東北と並んで、全国でも生活水準・物価指数の低かった
宮崎の地を選んで旅立った。
宮崎は、父の好きな統計数字の上で「暮らしやすい土地」だった。
また、統計上、宮崎は一人当たりの「消費酒量」の多い土地だった。
父はほとんど酒を呑まなかった。だから、母は酒の燗をすることもなかった。
そんな両親が選んだのが、宮崎で始めた「飲み屋」だった。
▼父と母が宮崎に旅立って一年して、私と妹は、宮崎で暮らすことになった。
なんとか、家族がいっしょに暮らすことができるようになった。
▼父は、私が4歳になるまで、知らない、居ない人だった。
昭和24年、シベリアから引き揚げて来た父に舞鶴ではじめて会った。
淡路で、家族の暮らしが始まった。
2年後、六つ下の妹が生まれた。
両親は、暮らしを立てるため、淡路から東京に旅立った。
そのときも、私と妹は、淡路の祖母の家に残った。
一年位して、東京で家族4人の暮らしが始まった。
そして、それから2年が過ぎて、東京でも暮らしが立たず、
父と母は宮崎に行ったのだ。
▼淡路から宮崎に来た。
宮崎で、父と母が始めたのは「飲み屋」だった。
『一の字』という屋号で、「出発」「スタート」の意味を、
屋号に込めたようだ。
それから、『一の字』の店は『大銀の茶屋』になった。
暮らし向きは、少しはよくなった。
店では宴会もでき、30人や40人の客にも対応でるようになった。
『大銀の茶屋』は、「金」になる手前の「銀」で大きくなるように、
父が名付けた屋号だ。
▼私は自分の小学校4年から高校3年までの生活で、
多少なりとも「飲み屋」という仕事を知っている。
それを生業とする家族の暮らしについても、私は経験上、
いくらか知っていることがある。
だけど、次男が『BAR Stache'S』を始めるにあたって、私は反対しなかった。
自分のことは、自分で決めるしかない。
▼私は、幼いころ、家族離れ離れになって暮らすことを経験した。
そして、親が「飲み屋」をやって、
『家族団欒の夜』に、父と母がいないことも経験した。
『紅白』も、妹と二人でラジオで聞き、テレビで見た。
それは、「飲み屋」をやれば当然のことだった。
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▼『BAR Stache'S』が開店して、店は9年目を迎えた。
次男のところには、二人の子供がいる。
ホノカとユイカである。
二人は、おそらく来たら、息せき切ってドアを開けるだろう。
そして、ドアを開けたら、「じいちゃん!」と笑顔で言うだろう。
この夜が明ければ、正月、家族が集まる。
次男のところも、長女のところも、来るだろう。
みんな集まると、13人になる。
昔だったら、それで「家族」ぐらいの人数になる。
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