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2012年12月30日03:21

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■「兆民と子規」 余話  (いよいよ最終回)

●2012年12月30日(日)  未明

 ▼妻は、「アンタって、ほんと限度ってものが分かってない!
      何事も、物には限度というものがあって、程程にせんとアカン!」
  と、私は常々、叱られる。

  「そんな事、書いたら、アタシがどんな女か、鬼婆か、と思われるの、あんた、
   分かっとるのか!」
  と、また叱られる。

  「ほんと、アンタって学習能力のない人やなー!」

 ▼その妻が眠たいのを我慢して「数独」しながら、
  「何時ごろ、帰ってくるのやろ?」と言うから、
  私が、「そんなら、電話してみよか?」と言うと、
  「せんで、ええ。どうせ、あした来るんやから・・」と言う。

  「まあ、電話してみたら・・」と私が言うと、
  「したかったら、アンタがしぃー!。わたしは眠たいから・・」と言う。

  そして、私が博多の長男に電話して、夕方ころ帰って来ること、
  いったん家にまで来て、大阪の次男の店に行くこと、を聞いて、
  「お母さんに替わろうか、と言うたら、もうエエということやから・・」
  と、電話を切ると、すかさず
  「あんた、そんな事まで言わんでよろしい。ワタシの株が下がるじゃないの!」
  と、また、叱られた。


 ▼妻は、30日も、31日も仕事である。
  「あんたなんか、ホンマ、しんどいやろ、大変やろ、と言うだけで
   何んにもせんで、同情するみたいな事、言うて、ほんと、あんたなんか
   スカンわ!」と言う。

  午前3時ごろ、コタツから起きた妻は、
  いま、数の子の袋の皮剥きをしている。
  
  「ホンマ、その通りやなー」というと
  「わかったら、あっち行って・・」と
  追い払われた。



 ▼さて、「兆民と子規」であるが、もう潮時かもしれない。
  二つ、三つ、「余話」みたいなものを書いて、今回で
  最後にしようと思う。



 ■『命のあまり』について
  ・明治34年11月20日、『命のあまり』が新聞「日本」に掲載されると
   すぐ投書が来た。

  ・まず、翌21日には、『落葉片々』という「投書欄」みたいなところだと
   思うが、そこに「有情漢」という人の投書が載った。
   「兆民は無神主義だから、自分が死んだら灰にして野山に捨てよ、と
    細君に命令したそうだが、細君は、それは人情ではないと争うたけれど、
    兆民は口が利けないので、『励行、励行』と石板に大書したという。
    しかし、私は、兆民が死んだら細君は、自分が何でも人情に近い、と思う
    方法で葬式をやったらいいと思う。死後まで自分の主張を通そうというのは、
    それは生きてる人間への『イラヌ世話』であって、無神主義なら、自分の
    死後の此の世のことをとやかく言うのは、無神主義に似合わない」
   という内容のものだった。

  ・11月23日、子規の『命あまり』第2回と併せ、『「命のあまり」を読みて』
   と題する「大キニヲセワ生」という人の投書が載った。「落葉片々」の欄に
   収まりきれない長文のものだった。
   内容は、11月30日の子規の反論『命のあまり』第3回を読めば類推できる
   ように、「子規批判」あるいは「命のあまり批判」を含むものであった。

 ・「大キニヲセワ生」は、「人間という厄介な動物には、他人の不幸は左程
  顧みもしないが、これが成功となると無暗に羨んで難癖をつけたがる先天的
  な一種の欠点が普通にある。これは誰でもよく知っているところだ」という
  一般論から書き起こし、「20日の『日本』新聞を見ると、俳句の宗匠で
  自分でも言っている通り、肺病で5年も寝ていることで知られている正岡子規君
  が、奇才と貧乏と、これも咽喉の難病で医者から一年半の寿命を宣告された
  ことで有名になり、『兆民居士』なる固有名詞で呼ばれている中江兆民の
  『一年有半』について、随分思い切ったことを言っている」と子規の「命の
  あまり」について論評する。

 ・「この本は君が言うまでもなく、居士が巻頭に断っている通り、病苦を凌ぎつつ
   自分の所見を多方面にわたって少時間に随筆したもので、希世の大著述で
   ないことは、世間や本人の居士の方が君よりよく知っている」
  「批評する価値がない、といいながら、君がこの本に縷々数言する君の真意を
   知るに苦しむ」
 ・「悪く邪推すれば、君にも他の成功を羨むという凡夫の陋劣心があるのじゃある
   まいか」
 ・「正々堂々、表面から男らしく批評するならともかく、人の懐に入った原稿料の
   多寡を云々したり、薬代が払えまいの、三途の川の渡銭があるまいの、と
   言うに至っては、ほとんど聞くに堪えない」
 ・「これが多少読書界に推奨せらるる子規君の口から出たかと思うと、僕は
   『墨汁一滴』にそそいだ同情の涙を、むしろ<憐れむべき>と君のことを
  思う」
 ・「居士の百事失敗の残骸が、今日、瀕死の境遇に至っても、意志の健在が
   認められて、普通に人情ある者は多く同情寄するに、君一人、目下の境涯が
   居士に譲らぬからと言って、好んで罵倒するにも及ぶまいじゃァあるまいか」
 ・「大キニヲセワ生」は、正鵠を射ていた。
  「子規」さんは、早坂暁さんではないが、「木端微塵」にやられている。
  しかし、やられたら、やられた分だけやりかえすのが、「子規」さんだ。
 ・「大キニヲセワ生」の「君は君の本領を発揮して後進の指南車ともなる者を
   残されたし」のあと、まさに「大キニヲセワ」と「揶揄」を絡めた最期の
   大失敗の一行を書き加えてしまった。
 ・「『墨汁一滴』同様、分量は少なくとも、世間の『同情』(narato『』付す)は
   多いだろうと思う。」

 ▼「共感」の意味での『同情』『人情』という言葉を用いている文章なのに、
  の意味を、相手のミスを
  逆手にとって、逆襲に出たのが『命のあまり』(3)である。

  このあとも、投書は止まることがなかった。しかも、「落葉片々」に収まらぬ
  長文で、そのときは「タイトル」を付して、投書を掲載している。


  11月26日、「『命のあまり読む』を読む」 入らぬをせわ子

  11月29日、「命のあまりに就いて」 黒天童 
          (これも超長文で、1日の紙面の割り付けスペースを軽く
           オーバーする程の長文だったため、翌日、も続きを掲載)
  11月29日、「落葉片々」  武行生
  11月30日、「命のあまりに就いて」 黒天童

  おそらく、このあたりで「幕引き」の予定だったのではなかったか。

  11月30日、『命のあまり』(3) で子規の反論を載せた。


 ▼しかし、投書はそれでは止まらなかった。
  もちろん、投書の内容は、子規に与するものや、的外れの難癖をつけるもの
  もあった。

  しかし、『命のあまり』は、子規の単なる「鬱憤晴らし」ではなく、読書子の
  垂死の気を抱えた「兆民と子規」の生き方、死に方、そして、自らの死に際に
  あたって、何を考え、何を行い、何を支えとすべきか、その反省を 促したことは
  事実であろう。

  それだからこそ、『一年有半』は売れたのである。
  たとえ、子規のいうように、『一年有半』が「際物」であったとしても、
  人々は、「兆民」を、そして『一年有半』を読みたいと思ったのである。

 ▼幸徳秋水の企画力と、『一年有半』のタイトルの奇抜さ、だけでは
  ベストセラーにはならない、と思う。

  そこには、「兆民」という人があったからだ、と思う。

  子規さんは、兆民さんの『奇行』を、「奇行的の人が平凡な議論をするのは
  嘘つきがたまたま、真面目な話をしたようで、何だか人をして半信半疑なら
  しめるところがある」と、『奇行』という言葉を使って「嘘つき」呼ばわり
  しているが、これは「言葉」を大切にする人としても、また、まったく俗人の、
  当たり前の普通の人としても、みだりに、人を「嘘つき」呼ばわりするのは、
  やっぱり、よろしくない。

 ▼すでに、新聞を毎日、読んでいる「子規」さんは、新聞の批評が『一年有半』
  について、本文のポイント数をあげたり、附録に昔の論文をつけたりして、
  一冊の「本」の体裁にしていることは、十分、承知のはず。

  そして、それは世間も知っていることでしたね。
  私も、国会図書館の『一年有半』の各紙「書評」を拡大コピーして読んでみました。

  なのに、『仰臥漫録』や『命のあまり』で、あたかも「新聞」全部が
  うちそろって、「ほめそやしている」ように書くのは「嘘つき」になるの
  ではないか、と思うのです。
   (でも、「嘘をつかねばならぬ」とき、というのもありますよね。)

 ▼また、横道にそれてしまったけれど、それは「卑しい」とか「嘘つき」とか、
  「おカネとか、」私がついつい「反応」する言葉に出会ったものですから・・。

  さて、本筋にもどって、『命のあまり』への「投書」の件であるが、
  11月30日に「幕引き」はならず、

  12月3日、「落葉片々」   自惚庵、俗悪士投 の二人
  12月4日、「命のあまり」についての後   大キニオセワ生
  12月6日、「落葉片々」   雲突坊
  12月7日、「落葉片々」   ○○道人

  と、連日のように続いた。
  『全集』に収載されている、掲載日と投稿者を、書き写しているので、
  実際の投稿数がいくらあったのか、これで全部か、そして、
  12月7日より後にも、投稿があったのかもわからないが、
  ともかく『全集』では、12月7日付け掲載分が最終である。



 ▼そして、投稿の掲載が止んだ、6日後、
  12月13日に、兆民は死んだ。

  子規さんは、兆民さんが死んでから、半年以上もたって
  明治35年7月26日に、『病牀六尺』で
  
   「兆民居士が『一年有半』を著した所などは、死生の問題に
    ついては、あきらめがついて居ったように見えるが、あきらめ
    がついた上で、その天命を楽しんで、というような楽しむという域
    には、至らなかったと思う。  ・・・中略・・・
    居士をして二三年も病気の境涯にあらしめたならば、今少しは、
    楽しみの境涯に入る事が出来たかもしれぬ。病気の境涯に処しては、
    病気を楽しむ、というならなければ、生きて居ても何の面白味も
    ない」

  と、後だしジャンケンのように、世間が静まってから、こそこそと書く。
  しかも、上から目線で・・・。

  でも、この「決め台詞」は、ほとんどの人が、コロリと参る。

  でも、書くのだったら、子規は「日付」を間違えた。
  兆民が死んだその翌日、『命のあまり』(4) として書くべきだった。
  そしたら、子規さんも「奇」の人、「狂」の人と呼ばれたものを・・・。


 ▼兆民の葬式の様子は、もう書かない。
  「告別式」の話などは、調べれば分かる。
  500人位だったか、その「告別式」に来て、
  兆民と「別れ」をしたそうだ。

 ▼後だしジャンケンの「日記」を、『病牀六尺』に書いて、
  その後、2ヶ月もたたないうちに、
  明治35年9月19日、子規さんが死んだ。

  子規さんの「葬式」、これも調べれば分かる。
  何人、葬式に来たか、
  そんな人数の多い少ないを比べても
  しょうがないから、これも
  もう書かない。

 ▼根岸だったか、「子規庵」という子規さんの住まいする所は
  なんでも、狭い横町らしくて、ドンづまり小道のように書いてあった、
  と思う。
  

  それで、何人だかが、棺桶をかついで出れば、道は
  家に入れない人もふくめて、ごったがえし、
  にっちも、さっちもならない状態だったらしい。

  それで、秋山なんとか言う人は、葬儀に遅刻して、
  人混みの後ろの方から敬礼だか、何かして、
  そのまま帰ったらしい。

  (いや、そうじやなくて、いったん家に上がってから
   焼香して、帰ったらしい)

  (調べると、司馬爺ちゃんのも、関川兄ちゃんのも、
   基本的には、高浜虚子さんの『正岡子規と秋山参謀』からの
   引用と脚色のようである。下のコメント欄に該当部分を抜書きする)

 ▼いや、葬式や、カネの心配など、通夜に来て、もそっと心配してくれる
  かと思っていたけど、まあ、子規さんとは、そんな「つきあい」だった
  のだろう、と思う。

  いずれにしても、「友を選ぶ」ということは、
  大切なことだと、あらためて、思ったのです。


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