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2012年12月29日21:53

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■「子規」さんへの手紙 / 「まだ、やってんのかヨー!」への言い訳

●「兆民と子規」について、「引用」というより「書き写し」を連綿と
 続けているが、これは「自分用のメモ」としてやっている。

 「自分用のメモ」だから、かわらなかったことが、自分で「本」を読んでみて
 もう分かったところや、また、調べるべき事柄の掲載された「本」が手許にあれば、
 何も書き写す必要はないのだ。

 しかし、私の関心につきあってくれている人がいて、その人のために、
 自分のコメントを書くよりも、その人と土俵を同じくするために、まずは
 私が見たり読んだりした「材料」を提供すべく、「書き写し」作業を
 している。 

 とは言え、「お前は何を言いたいんだ!」と、心中、思っている人も
 おられる、と思う。

●うちの奥さん何んかは、「あんた、もういい。もういい。もう、あんたの
 言いたいことは、言わんでもわかってるから、もう、黙っといて!」という。

 また、息子は、「オトンの話は説明が長い。オレの知りたいのは答えであって、
 説明はいらん。早よう、答え教えて!」と、子供のころに勉強を教えている私に
 言った。

●ときどきでも、こんな私の「日記」に立ち寄ってくれる人は、
 「まだやってんのかヨー」とか、
 「シツコイなー」とか、
 「訳わからん」とか、
 思いつつ、それでも、ときどき様子を見にきてくれている。
 
 もちろん、『命のあまり』(1)(2)(3)まで読んでくれた人の中に、
 「くどくど言わなくても、もう分かってますよ」と、うちの奥さんみたいに
 察しのいい人もおられる。

 しかし、息子のように、「早よう結論、言わんかい!」と思っている
 人もおられると思う。

●それで、結論みたいなもの、私の見解みたいなものを
 メモ書きをすることにした。

 ▼「子規」は、泣きミソの、意地っ張りの、負けず嫌いの、強情の、皮肉れ者である。
  また、下卑たところもある。

  しかし、それがどうしたと云うことか。
  それでいいではないか。
  「羨ましくて、妬(そね)んだ」のに、そのことを正直に認められなくて、
  意地張ったり(『命のあまり』)、カッコ付けて見たり(『仰臥漫録』)しても、
  いいではないか。

 ▼しかし、その「いいではないか」に行けない所が、「子規」の「子規」たる所以
  である。

 ▼『仰臥漫録』は、はじめから「読んでもらうために」書かれている。
  ただし、死ぬ前にバレてはいけない、公開してもらっては困るのだ。
  なぜか、それは値打が下がるからだ。「子規」の値打も、『仰臥漫録』の
  値打も。
  しかし、子規さん、それはアンタの「取り越し苦労」というもの。
  「子規」は立派です。『仰臥漫録』も稀代の名著です。もっと自信を持って
  ください。

 ▼その自信のなさが、「兆民」に手鉤をかけたのですね。
  しかも、『一年有半』にではなく、「中江兆民」という生きた人間に
  「作品と作品」ではなく、「人間と人間」を比べようとしたのですね。


 ▼戯作もあり、静謐な文もあり、「山会」の文章研究では『実人生と文』
  という科目はなかったのでしょうか。

  目利きを自負している「福田和也」も、「関川夏央」も、そして
  「復本一郎」も、みんな「子規」さんに騙されました。
  いや、実は騙されていないのですが、騙されたように「子規像」を
  作っていかないと、メシは食えないのかもしれません。

 ▼早坂暁さんなんか、素直な人で、やさしい人だから、「目からウロコ」と
  まで、言っています。騙されるのです。
  そして、騙されるのも、「感動」なんです。



 ▼いつのまにか「坂の上の雲」と、「子規」さんのことが関連付けられ
  物語られるようになりました。仕掛け人の仕業です。


  でも、「坂の上の雲」の人々に手鉤をかけるのではなく、「兆民」に
  手鉤をかけたのは、流石、抜け目のない「子規」さんです。

  福田も、関川も、復本も、みんな「引用部分」は、巧みに「都合の悪い部分」
  をカットしています。


  それは、「子規」さんへの配慮なのか、自分の眼力の足らなさか、私は
  よくは分かりません。
  彼らが「子規」さんを「褒める上」でも、私が「子規」さんを、心底、
  尊敬する上でも、「都合の悪い部分」は、ちっとも「隠す必要のない」こと
  です。

  まして、復本一郎『子規とその時代』(P14)のように
    「子規は、明治三十四年の十一月二十日、二十三日、三十日と、
     三回にわたって『日本新聞』(正確には、『日本』。「日本新聞」は
     子規らの通称)という公の場で、「命のあまり」と題して、怒りを
     爆発させ、『一年有半』批判を繰り広げたのであった
     (三回目は、第三者による「乳臭俗論」に対する反論に費やされて
     はいるが)。
     といっても、子規の態度は、きわめて冷静、この記事を目にした
     兆民をひどく不快にさせたようなものではないように思われる。
     むしろ、その矛先の大部分は、定見なく「ほめ立てた」新聞に
     向けられているのである」
  と、兆民の気持まで推量して、子規をかばう必要もない。

  復本は、子規の「命のあまり」の文章や、子規の対応・態度が「マズイ」と
  思うからこそ、「マズイ部分」を隠したり、「マズイ文章」を解釈上で
  弁護しょうとする。

 ▼そこに大きな勘違いがある。子規は「マズイ人」であり、少なくとも
  「命のあまり」をめぐる一連の文章は「マズイ文」である。

  それが、どーした。
  そう言わなければならないところを、彼らは
  見誤っている。
  というより、子規本人が見誤っている。

  そして、私は、子規自身が
  「マズイ人」で、「卑しい人」で何が悪いと
  言うべきだったと、思うが、
  そう思えないのが「子規」なのである。

  「兆民をバッサリ、斬って捨てた」というものでは
  到底ない。

     
  福田も、関川も、復本も、そんな「子規」を見つめたうえで、
  「褒め言葉」を書くべきであったと、私は思っています。

 ▼『実人生と文』などと、分かってない者が口幅ったいことを言いましたが、
  「子規」さん、あなたは身体を張って、「人間・正岡子規」という私小説を
  実人生で書かれました。

  関川夏央は、次のように書いていますが、これは彼の見間違いです。

     明治34年9月2日から子規は『仰臥漫録』と題した日記を
     つけはじめている。
     公開を予定しない日記に目立つのは、痛みと苦しみの記録で
     ある。
     だが、その深刻さのわりには分量が少ない。
     病苦の描写はあっても、痛み苦しむ「内面」は出てこない。
     子規に「私小説」がきざす方向性がなかったのは、時代が
     求めなかったためもあろうが、彼の精神が多忙であったから
     である。(関川夏央『子規、最後の八年』)

  子規こそ、実人生を「私小説」にしようと企画した人です。
  膨大な量の書きもの・メモ類など、すべてを保存しようと思ったくらいです。
  「子規研究」が進むように、ある配慮をしながら、記録し、保存したのです。
  人生に「私小説」を書いた人、それが「人間・正岡子規」です。



 ▼なんだか、だらだらと、「子規」さんに対する弔辞みたいになってしまい
  ました。

  モノ書きは「業」ですね。
  司馬遼太郎という人は、講談社版『子規全集』を監修しただけでなく、
  『ひとびとの跫音』という「本」も書きました。ツウにはこれが、
  この人の「代表作」だと言います。蛇足ですが、もうご存じとは思いますが、
  『全集』の奥付には、クレジットというのですか、
    著者    正岡子規
    編集代表  正岡忠三郎
    発行者   野間省一
  となっています。ご心配のおカネの額は、よくは分かりませんが、妹の
  律さんの養子となられた「正岡家」にも、著述業の方にも支払われたと
  思います。

  手鉤に掛けた「兆民」さんの方ですが、きっとあなたは、「兆民さんには、
  ひどいことを言ってしもうたヮ」と内心、気にかけているかもしれませんが、
  ご安心ください。

  また、「兆民」さんについては、松本清張という人が『火の虚舟』という「本」
  で書いているそうです。

  また、
  「子規」さんところは、血は途絶えても「家」は残りましたが、
  「兆民」さんところは、「家」は途絶えましたが、娘さんが嫁いで、
  なんでも、時の総理の系譜に連なる親戚筋で、血統は続いている
  そうです。

  なんだか、下世話な話になってしまいましたが、
  お体には、十分気をつけてください。

  また気が向けばお便りします。
  それでは、さようなら。

   追伸: 文はやはり戯作より、凛としたものがいいですね。
       書けば、おのずとそう思います。
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