●2012年12月23日 (日) 曇り
▼明石公園のずっと奥の方、いつも春の花見大会を開催する
池の周りのその手前に、喫茶店があり、そこから右手に
ゆるやかな坂がある。登っていくと道は大きく左に湾曲し
「喜春橋」という橋のたもとに出る。右手に小さな池があった。
明石公園の入り口の案内板には、現在地と兵庫県立図書館、
それに隣りあう明石市立図書館が記されていて、
「ここから15分」と表示してあった。
ずいぶん遠いなー、と思って広い昔の城のあとの公園を歩いた。
春には桜があって風情もあろうが、いまは枯葉が水面に落ちて、
ときどき強い風が吹き、浮かんだ枯葉をススッーと池の中央に
運んでいった。
▼どうして、こんなに「兆民と子規」にこだわるのだろうと思う。
子規が、兆民に投げつけた「生命を売物にするは卑し」という
言葉がひっかかる。
アサヒ・ドット・コム『たいせつな本』で、早坂暁さんは、書いてた。
正岡子規さんの病床日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』ほど、
私の眼から見事にウロコを剥ぎとってくれた本はない。
「ウロコ」とは何か。 私と同じ余命1年半と宣告された
癌患者・中江兆民さんが書いた覚悟の書『一年有半・続一年有半』で
ある。
私は『一年有半』を杖がわりにして、わが「死」に対決し突破しようと
する算段だったが、郷里の大先輩である子規さんによって斬って捨て
られた。
子規さんの病は脊椎カリエス。その『仰臥漫録』にこう書く。
「『一年有半』は浅薄なことを書き並べたり、死に瀕したる人の
著なればとて新聞にてほめちぎりしため忽(たちま)ち際物(
きわもの)として流行し六版七版に及ぶ」
さらに子規さんは言う。「生命を売物にしたるは卑し」と。
木端微塵なんだ。
▼『一年有半』は、兆民没後に、出版されるはずだったが「生前の遺稿」として
世に出た。
『仰臥漫録』はもともと公表しない「手控え」として、また子規のいう
「病気を楽しむ」ために、書かれたものだった。
しかし、手控えの日記が公表され、私たちの目にふれることで、最近の流行り
言葉で言えば、「生きる勇気」をもらっている。
▼内容的にも両著は異なり、意図・目的も異なっている。
あと「一年有半」の人に薦める「本」はどちらかと問われれば、なんの
ためらいもなく、私は『仰臥漫録』を挙げる。
しかし、生前に出ようが、没後に出版されようが、「瀕死の人」が書いた
もので、その「本」の内容が、そのときの「生」や「死」を書き綴ったもので
あれば、それは「生命を売物」としたと、いうべきなのだろうか。
▼きのう『ことの順序」でふれたように、
「明治34年10月29日、虚子が来て『仰臥漫録』を「ホトトギス」に
連載できぬかと、といったとき、子規は不快を感じた。自分の死への道程を
『一年有半』のごとく万人の娯楽とするつもりかと、思ったのである」
(関川夏央『子規、最後の八年』)
▼「生命を売物にしたるは卑し」という言葉は、天に唾するのと同じで、
子規、その人にも向けられている。
烈しく罵倒すればするほど、刃は自分の胸を刺す。その自覚があれば
あるほど、烈しく罵りたくなる。
なぜ『一年有半』に子規がこだわったか、それは、『一年有半』の著述に
「和歌・俳句が詩型の小なるをもって一蹴され、わずかに字句の表てを
わずかに変じたる<陳腐>なもの」と断じてあるためや、そんな「本」が
ベストセラーになった、という憤懣だけではなかったと思う。
鏡に自分を見る様な感じ方が、子規にあったのではないか。
だからこそ、烈しく兆民に噛みついたのではなかったか。
▼子規の「本」や、子規についての「本」を読む前に、ある「本」に
子規のこんな話が載っていた。
明治二十八年、子規が郷里を立って東京に帰ると、
友人から便りがあり、松山の古道具屋の風鈴に、
子規の短冊がつけられ風鈴が売られていた、値段は
一銭五厘だった、哀れに思って買い取った、という
文面だった。
すると、子規から返事がきて、自分の短冊は後日
必ず値が出る、君、もし金持ちになりたいなら、
今のうちに買い占めておけ、と書いてあった。
(注: 「本」は、出久根達郎『百貌百言』)
▼「生命を売物にしたるは卑し」と、兆民を烈しく批判する『仰臥漫録』や、
「兆民と同じにするのか」と、強く虚子を叱責する子規の内心を思うと、
子規にそんなに関心のない頃に読んだ、この話を思い出し、
私は、明治28年の空を見上げる子規の姿を想像してみるのだ。
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