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2012年12月22日23:46

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■子規の風鈴

●2012年12月23日 (日) 曇り

 ▼明石公園のずっと奥の方、いつも春の花見大会を開催する
  池の周りのその手前に、喫茶店があり、そこから右手に
  ゆるやかな坂がある。登っていくと道は大きく左に湾曲し
  「喜春橋」という橋のたもとに出る。右手に小さな池があった。

  明石公園の入り口の案内板には、現在地と兵庫県立図書館、
  それに隣りあう明石市立図書館が記されていて、
  「ここから15分」と表示してあった。
  ずいぶん遠いなー、と思って広い昔の城のあとの公園を歩いた。

  春には桜があって風情もあろうが、いまは枯葉が水面に落ちて、
  ときどき強い風が吹き、浮かんだ枯葉をススッーと池の中央に
  運んでいった。


 ▼どうして、こんなに「兆民と子規」にこだわるのだろうと思う。
  子規が、兆民に投げつけた「生命を売物にするは卑し」という
  言葉がひっかかる。

  アサヒ・ドット・コム『たいせつな本』で、早坂暁さんは、書いてた。

    正岡子規さんの病床日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』ほど、
    私の眼から見事にウロコを剥ぎとってくれた本はない。
    「ウロコ」とは何か。 私と同じ余命1年半と宣告された
    癌患者・中江兆民さんが書いた覚悟の書『一年有半・続一年有半』で
    ある。

    私は『一年有半』を杖がわりにして、わが「死」に対決し突破しようと
    する算段だったが、郷里の大先輩である子規さんによって斬って捨て
    られた。
    子規さんの病は脊椎カリエス。その『仰臥漫録』にこう書く。

    「『一年有半』は浅薄なことを書き並べたり、死に瀕したる人の
     著なればとて新聞にてほめちぎりしため忽(たちま)ち際物(
     きわもの)として流行し六版七版に及ぶ」

    さらに子規さんは言う。「生命を売物にしたるは卑し」と。
    木端微塵なんだ。

 ▼『一年有半』は、兆民没後に、出版されるはずだったが「生前の遺稿」として
  世に出た。
  『仰臥漫録』はもともと公表しない「手控え」として、また子規のいう
  「病気を楽しむ」ために、書かれたものだった。

  しかし、手控えの日記が公表され、私たちの目にふれることで、最近の流行り
  言葉で言えば、「生きる勇気」をもらっている。

 ▼内容的にも両著は異なり、意図・目的も異なっている。
  あと「一年有半」の人に薦める「本」はどちらかと問われれば、なんの
  ためらいもなく、私は『仰臥漫録』を挙げる。

  しかし、生前に出ようが、没後に出版されようが、「瀕死の人」が書いた
  もので、その「本」の内容が、そのときの「生」や「死」を書き綴ったもので
  あれば、それは「生命を売物」としたと、いうべきなのだろうか。

 ▼きのう『ことの順序」でふれたように、
   「明治34年10月29日、虚子が来て『仰臥漫録』を「ホトトギス」に
    連載できぬかと、といったとき、子規は不快を感じた。自分の死への道程を
   『一年有半』のごとく万人の娯楽とするつもりかと、思ったのである」
    (関川夏央『子規、最後の八年』)

 ▼「生命を売物にしたるは卑し」という言葉は、天に唾するのと同じで、
  子規、その人にも向けられている。
  烈しく罵倒すればするほど、刃は自分の胸を刺す。その自覚があれば
  あるほど、烈しく罵りたくなる。

  なぜ『一年有半』に子規がこだわったか、それは、『一年有半』の著述に
  「和歌・俳句が詩型の小なるをもって一蹴され、わずかに字句の表てを
   わずかに変じたる<陳腐>なもの」と断じてあるためや、そんな「本」が
   ベストセラーになった、という憤懣だけではなかったと思う。

  鏡に自分を見る様な感じ方が、子規にあったのではないか。
  だからこそ、烈しく兆民に噛みついたのではなかったか。



 ▼子規の「本」や、子規についての「本」を読む前に、ある「本」に
  子規のこんな話が載っていた。

    明治二十八年、子規が郷里を立って東京に帰ると、
    友人から便りがあり、松山の古道具屋の風鈴に、
    子規の短冊がつけられ風鈴が売られていた、値段は
    一銭五厘だった、哀れに思って買い取った、という
    文面だった。

    すると、子規から返事がきて、自分の短冊は後日
    必ず値が出る、君、もし金持ちになりたいなら、
    今のうちに買い占めておけ、と書いてあった。

    (注: 「本」は、出久根達郎『百貌百言』)




 ▼「生命を売物にしたるは卑し」と、兆民を烈しく批判する『仰臥漫録』や、
  「兆民と同じにするのか」と、強く虚子を叱責する子規の内心を思うと、
   子規にそんなに関心のない頃に読んだ、この話を思い出し、
   私は、明治28年の空を見上げる子規の姿を想像してみるのだ。
 


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