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2012年12月17日13:23

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■兆民と子規(12)  中江兆民の文楽

●2012年12月17日(月)  曇り

 ▼中江兆民の文楽
  「妄想オムライス」より
  ・http://tiiibikuro.jugem.jp/?eid=713


  ●「余命一年半、養生しても、もって二年」と宣告された兆民の遺書。
   解説によると、兆民の生涯は大きく、仏学者時代、新聞人・議員時代、
   実業家時代の三つに分けられるという。

   『一年有半』が書かれた晩年は、鉄道を始めとする事業にことごとく
   失敗し、困窮のうちに妻と暮らしていた。住居は東京小石川にあるが、
   大阪に投宿し、浄瑠璃を聴きに出掛けるのを、最後まで心の拠り所として
   いたようだ。

   大阪今橋の診療所で咽頭癌と診断を受け、主治医の重い口から無理矢理
   余命一年半の宣告を引き出した兆民は、そのまま小塚旅館に投宿し療養
   生活に入る。
   明治34年4月の事であった。

   この頃兆民は堀江明楽座で大隅大夫の千本桜を、御霊文楽座で越路大夫の
   忠臣蔵を聴いている。
   兆民が初めて文楽に接した時期がいつ頃なのか、はっきりとはしないが
   「これより先余の大阪に来(きた)るや、かつて文楽座義太夫の極て
    面白きことを識りたるを以て、(余は春大夫靱大夫を記憶せり)・」と
   記してある。

   これに先立つこと明治28年、團十郎、菊五郎、九蔵(のち団扇)らの芝居
   を見物するようにもなっていた。


  ▼越路大夫を聴く 戯曲界の一偉観  (p21)
   これより先余の大阪に来(きた)るや、かつて文楽座義太夫の極て
   面白きことを識りたるを以て、(余は春大夫靱大夫を記憶せり)旅館
   主人を拉(らっ)して文楽座に至る。

   越路大夫の合邦ヶ辻呼物にて、その音声の玲瓏(れいろう)、曲調の
   優美、桐竹、吉田の人形操使(つかい)の巧(たくみ)なる、遠く余が
   十数年前に聞きし所に勝ること万々。余素より義太夫を好む。

   しかれども殊に大坂のものを好む、東京(とうけい)のものを好まず、
   東京の義太夫は大坂のものに比すれば一児戯に値せざるなり(子供の
   遊びにも劣る?)。その後また越路の天神記中寺子屋の段を聞き、忠臣蔵
   七段において呂大夫平右衛門を代表し、津大夫由良之助を代表し、越路
   大夫於軽を代表して、いはゆる掛合ひに語り、更に越路大夫が九段目の
   於石となせの取遣りを語るを聞き、また慶楽座において大隅大夫の千本桜
   鮨屋の段を聞けり。

   それより四月二十日に妻(さい)来(きた)れるを以て復(ま)た共に
   文楽座に赴き、その後いくばくもなくしてまた赴けり。
   故にこの忠臣蔵の浄瑠璃は妻は二度聴き、余は三度聴きて啻(ただ)に
   厭はざるのみならず、いよいよ聴きていよいよ面白味を感ぜり、
   巧(たくみ)なる証拠なり。
   けだし津大夫の状貌(じょうぼう)並(ならび)にその沈毅(ちんき)の
   音声、重もくるしき洒落等、正に千五百石赤穂城代たる大石内蔵之助その
   人を想はしむ。

   呂大夫の善く関東音を遣ひ、率直にして勇み膚なる即ち平右衛門その人
   なり。
   もしそれ越路の優美なる音声と婀娜(あだ)なる曲調とに至ては、於軽を
   模写(ぼしゃ)する誰(た)れかこれに近似し得(う)る者ぞ、
   真(まこと)にこれ戯曲界の一偉観といふべし。余既に三たびこの偉観に
   接す。一年半決して促(そく)にはあらざるなり。孔聖いはずや朝(あした)
   に道を聞(きい)て夕(ゆうべ)に死すとも可なり。




  ▼団平と大隅大夫 (p25)
   これより先、いまだ入院せざる前、余妻(さい)を携へて堀江なる明楽座
   に往(ゆ)き大隅大夫の浄瑠璃を聴く。妻が大隅を聴くこれを始めとす。
  
   大隅は名人故春大夫の弟子にして春大夫歿後(ぼつご)これが三絃(さみ
   せん)を任じ居たる古今無双と称せられし豊澤団平に従ひ、同人にその
   神品(しんぴん)ともいふべき三絃を以て引廻はされ、自然に故春大夫の
   音節の蘊奥(うんおう)を極むることを得たりといふ。

   殊に近頃流行の壺坂寺の如きは団平実に開山にして、これを大隅に伝へ
   たるが故に、ほとんど今日(こんにち)ありて大隅大夫の専売ともいふ
   べし。

   余出院して小塚へ帰るや、明楽座の三十三所の題目を掲げ、壺坂寺の段は
   大隅大夫これを語ることとなり、毎日大入なりと聞けり。

 
  ▼大隅大夫の壺坂
   かくの如くに壺坂寺の段は、大隅大夫の十八番(おはこ)ともいふべき
   者にて、ために大入を占むる、是非一往せざるべからず、乃(すなわ)ち
   一日(いちじつ)妻と共に往けり。それ明楽座は人形といひ、人形遣いと
   いひ、到底文楽座の巧妙に及ばず、その他道具といひ総て及ばず。

   しかるに午後二時三時の比(ころ)より客衆続々詰懸け来り、遂に場内
   立錐の地を留めざる者は、此輩(このはい)全くそれ以前の大夫を眼底に
   置かず、ただ大隅一人(いちにん)を聞くがためにかくは雑踏し来(きた)る
   なり。

   これを以て言へば大隅一人にて優に文楽座の向(むこう)を張り居れる
   といふべし。

  ▼技此に至りて神なり
   三十三所霊験(れいげん)、順次段を逐(おっ)て了(お)はれり、
   竟(つい)に壺坂寺の段に至れり。序幕は春子大夫影にて語り去り、
   既にして大隅大夫その相撲然たる肥大の体を掲げ来り、やがて彼(か)の
   有名なる法師歌「夢が浮世か浮世が夢か」を唄ひ出し裊々(じょうじょう:
   たおやか・音声が続いて絶えないさま)絶へんと欲して絶えず、その沢市と
   里との噺の如き直ちにその人を現出したる如く、この間に大隅大夫なきな
   り。

   ああ技(ぎ)此(ここ)に至りて神(しん)なり、これ浄瑠璃か、
   これ噺耶(か)、これ活劇耶、他人の浄瑠璃は浄瑠璃なり、大隅の浄瑠璃
   は事実その物なり。
   かつ彼れは故(こと)さらに拍手喝采を博せんと欲するが如き態絶
   (さまたえ)でなく、ただ自ら語り自ら研究して、自ら満足し自ら楽むが
   如き所、真(しん)に高尚上品にして、到底他(た)碌々(ろくろく)
   たつ者と比すべきにあらず、ああこれ斯道の聖(ひじり)なり。

 
 
  ▼玉造と紋十郎の人形 (p38)
   御霊文楽座の人形遣いに富めること久し。目今吉田玉造の男役における、
   桐竹紋十郎の女形における俱(とも)に神品なり。

   而して玉造の男は團十郎に似たるあり、紋十郎の女は菊五郎に似、
   秀調に似て大いにこれに優る。
   その神旺(しんおう)し手馳せて最も得意の侯に及びては、人形のほか
   絶えて遣手を見らざしむ、人形即ち人なり、役者なり、ああ、技(ぎ)の
   神(しん)なるなり。


  ▼文楽の三絶
   玉造、紋十郎は人形において、津大夫、越路大夫は浄瑠璃において、
   広助、吉兵衛は三絃において、まさにその神技を馳す、いはゆる三絶
   なり。

   文楽座狂言の天下に度越(どえつ)する所以なり。

 
  ▼津大夫
   津大夫声低くして、七、八合目以外にある観客は恐らくは一語も
   聞ゆるなくして、ただ唇頭の動くを見るのみ、態度の変転するを見る
   のみ。

   しかれども津大夫一たび場(じょう)に現はるれば、満座粛然として
   敢て讙譁(かんか・かまびすしい)する者なし、けだし大夫意気精神を
   以て語りて、聴衆もまた意気精神を以て聴くなり。

   もし二、三合目の処に居て仔細に傾聴するときは、その音動の微妙にして
   高尚なる、態度の自然に出でて少しも無理と当込みとなきこと、老練の
   極(きょく)とといふべく、彫琢して環(あらたま)に帰へるものといふ
   べし。

   越路音声の美、曲調の巧、真(まこと)に匹儔(ひっちゅう)なし。
   けだし津大夫、呂大夫は、玉造の男形と相ひ待ち、越路大夫は紋十郎の
   女形と相ひ待ちて、俱にその妙を極むるを得、皆逸品なり。


  ▼広助、吉兵衛
   豊澤団平死して、絃界落莫(らくばく)たるを免れず。広助吉兵衛皆体を
   具へて、而して微なる者。


  ※明楽座は、明治35年の「太字明瞭大阪地図」で、西区北堀江の長堀橋に
   かかる冨田屋橋を南に一筋入った左手、西長掘南通沿いの一郭に
   「明楽座」とある。
   西区北堀江二丁目二番地がその跡地。明治34年1月には文楽座と同じ
   「菅原伝授手習鑑」を出し張り合っていた。
 


  =========================

   <目次>
    校注にあたって
  
    『一年有半』 
    『続一年有半』

   注
   解説
   中江兆民年譜
   兆民著作振り仮名要覧

  一年有半 <生前の遺稿> 目次
  続一年有半 <一命無神無霊魂> 目次

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  ※近代非凡人三十一人の中には学者、志士、政治家、経済人と並んで
   春大夫、団平、円朝、越路大夫、大隅大夫の他に、名も無きに等しい
   大道芸人の名前も挙げられているが、而して伊藤、山県、板垣、
   大隈(重信)は与からず、だそう。総じて伊藤博文をボロクソに批判し
   ている。
   要するに政治家はどいつもこいつも私利私欲に走り暴利を貪ってないで
   ちゃんと仕事しやがれ!と。
   『続一年有半』では、兆民の哲学思想が読める。


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