●2012年12月17日 (月)
▼『一年有半・続一年有半』とはどんな「本」なのか。
まだ、読んだことがない。
松岡正剛「千冊千夜」に掲載されている内容から、以下、抜書きする。
■"東洋の蘆騒"こと中江兆民という名前は日本人ならだいたいが知っている。
蘆騒はルソーのことである。日本開明期のフランス学派の泰斗、ルソー『民約論』の
翻訳者、共和主義の主唱者、噂にまでなった奇癖の持ち主、仏学塾の塾頭、
ベストセラー『三酔人経論問答』の著者、若いころからの三味線や義太夫へ
の傾倒、幸徳秋水の師匠であったこと、大阪第4区で立候補して衆議院議員に
なったこと等々、こういった兆民像はよく知られている。
▼ここまでは、一般的な「兆民」の紹介で、このあと、兆民の義太夫への傾倒に
ついて書いてある。
■(兆民は大阪で倒れてからあと)3度にわたって浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』を
見に行った話は夙に有名で、遺稿『一年有半』に出てくる。
が、よく読むと、兆民はその前後に何度も文楽座や明楽座を訪れて、
越路大夫だけではなく大隅太夫や津太夫の義太夫にも聞き惚れている。
■もともと兆民は明治維新とともにフランス語と三味線を習った土佐の青年だった。
もう少し正確にいえば、フランス語と漢学と三味線である。
兆民がおこした門人2000人におよんだ仏学塾は漢学をこそ下敷きにした。
しかし、その後の兆民がどのように三味線に親しみ、浄瑠璃に遊んだかは、
まったく記録がない。
それが癌宣告直後の『一年有半』で、あたかも伏流が噴き出るように義太夫の
神技に酔う心が吐露される。
▼このあたりを読むと、兆民は死の間際に突然、噴出するように、かつて親しんだ
義太夫に「楽しみ」を求めたことが分かる。
しかし、「千冊千夜」の『一年有半』の紹介は、この「本」の編集と云うか、
構成というか、この「本」が、とてもヘンな「本」であることを指摘している。
■(『一年有半』の)その冒頭、兆民は自身にふりかかった宿命を「虚無海上一虚舟」
と言いつつ、「一年半は諸君は短促なりといはん、余は極て悠久なりといふ」と
書き、まずは伊藤内閣から桂内閣におよんだ政情不安定を眺め、また
マンチェスター派の自由放任主義経済を導入しすぎて「車輌ありて積貨なし」
の経済社会になってしまったと批評をして、「今の日本はコルベールの時代なり」
と長嘆息する。
■ここまではいかにも日本を睥睨して中江兆民ここにありという風情なのだが
、 このあと、「これより先、余の大阪に来るや、かつて文楽座義太夫の極て面白き
ことを識りたるを以て(余は春太夫靫太夫を記憶せり)、旅館主人を拉して文楽座
に至る」と、突然に書くのである。
▼ここから、兆民の義太夫への心酔ぶりが紹介され。
■どうみても兆民の義太夫への心酔は尋常ではない。
『一年有半』の最初には「越路太夫の合邦ケ辻呼物にて、その音声の玲瓏、
曲調の優美、桐竹、吉田の人形操使の巧なる、遠く余が十数年前に聞きし所に
勝ること万々」(と書き、)
■そのあとすぐに「その後また越路の天神記中寺子屋の段を聞き、忠臣蔵七段に
おいて呂太夫平右衛門を代表し、津太夫由良之助を代表し、越路太夫於軽を
代表して、いはゆる掛合ひに語り、更に越路太夫が九段目の於石となせの
取遣りを語るを聞き、また明楽座において大隅太夫の千本桜鮨屋の段を聞けり」と
あって、越路太夫だけではなく大隅太夫ほかも聞いていることがのべられる。
■とくに竹本大隅太夫については、後段にも入院手術前に堀江の明楽座に聞きに
行って、豊沢団平の名人芸をうけつぐ神品に酔ったこと、さらに壷坂寺の段で
春子太夫の語りののち、大隅太夫が法師歌を「夢が浮世か浮世が夢か」と謡い
出すと、「ああ技此に至りて神なり」と陶然としている。
■そのほか二、三の浄瑠璃についての言及があるものの、これらだけでは兆民が
義太夫に日本人の根本のようなものを感じていることはわかるとはいえ、
それ以上のことの説明はない。
■こうした兆民の、政治論につづいて義太夫議論を交ぜるという談義の作法には、
まことに独得のものがある。
のちに露伴・四迷・漱石そのほかの明治文人たちの多くが、挙って義太夫・
常磐津・小唄などに耽ることになるのだが、その先例は兆民こそが拓いたもの
だった。
が、政治と哲学と義太夫を一緒に語るという芸当は兆民をおいては、ずっとのちの
九鬼周造にはその趣向と道楽の哲学があるものの、ほかには見当たらない。
▼そして、兆民の「判釈」というのが紹介される。
「判釈」とは、辞典で調べると、仏教用語「教相判釈」の略語で
あらゆる経典を釈尊の生涯の時期の前後に排列し、経典の内容を
判断して、自分の宗旨の優位を主張する方法とある。
兆民が行った「判釈」とはどんなものだっのだろう。
■ところで、『一年有半』にはたいそう興味深い「判釈」が出てくる。これは
紹介しないわけにはいかない。
おそらく、この「判釈」をほぼまちがいなく説明できるならば、明治文化が
もたらした日本人が抱えた問題の本質、もっと端的にいうのなら日本人は何を
見るべきだったのかという問題の一端がほぐれてくるのではないかとおもわ
れる。
■が、それができる人材は、いまはまったくいないだろうとしか思えない。
兆民が何を判釈しているかというと、「余近代において非凡人を精選して、
三十一人を得たり」というのである。これがすこぶる傑作なのだ。
以下の31人である。
兆民が並べた順に、綴りもそのまま書くと、曰く、
藤田東湖、猫八、紅勘、坂本龍馬、柳橋、竹本春太夫、
橋本左内、豊沢団平、大久保利通、杵屋六翁、北里柴三郎、
桃川如燕、陣幕久五郎、梅ケ谷藤太郎、勝安房、円朝、伯円、
西郷隆盛、和楓、林中、岩崎弥太郎、福沢、越路太夫、大隅太夫、
市川団洲、村瀬秀甫、九女八、星亨、大村益次郎、雨宮敬次郎、
古川市兵衛、
というふうになる。
■実に奇っ怪な顔触れである。生年順でもない。
また、系統もついていない。
ぼくとしては多少納得できないものもあるのだが、これが全生涯をかけた
中江兆民の"遺言"ともいうべき近代同時代の日本人たちなのだ。
■なんといっても芸能者が多いのに驚く。
おそらく説明しないとほとんどわからないだろうから、一言だけキャプションを
つけておくことにする。
東京亭猫八は大阪生まれの物真似名人(いまの猫八とはつながっていない)。
紅勘は俗称で紅屋勘兵衛といわれた三味線名人だが、出自ははっきりしない。
柳橋はのちに柳桜を襲名した三代麗々亭柳橋で人情噺を得意とした落語家で
ある。
■竹本春太夫・豊沢団平は「春太夫以来太夫なく団平死して三弦弾なし」と
いわれた希代の三味線名人、ここから越路も大隅も育っていく。越路は明治
36年に六代春太夫を襲名して摂津大掾を受領した。越路の弟弟子が大隅太夫
だった。杵屋六翁は四世六三郎のことで、これは十代六左衛門とともに
長唄三味線を中興した。七代目団十郎のために長唄の名曲『勧進帳』を作曲
した。
桃川如燕・松林伯円は講釈師。新作を次々につくって一世を風靡した。
■和楓は清元から長唄にまわって独得の美声で鳴らした三代松永和楓のこと、
林中は初代の常磐津林中である。一時、常磐津文字太夫を名のった。
市川団洲は九代目市川団十郎のことで、九女八は歌舞伎の女優で市川九女八。
このほか、陣幕・梅ケ谷の相撲取りと三遊亭円朝があがっている。
■これらが坂本龍馬や勝海舟、藤田東湖や橋本左内、西郷隆盛や北里柴三郎と
並んでいるわけである。
伊藤博文・山県有朋らは注意深く除去されている。露伴や紅葉らの文学者が
入っていないのは、まだ兆民の時代では北村透谷が自殺したばかりの時期で、
大半の作家が20代・30代だった。ここにあがっている人物は60歳をこえた者
ばかりとみていいだろう。
■なんだか兆民の不可思議なところだけを紹介するにとどまってしまったが、
今日はこれでよしとしておく。
兆民が自由民権運動の主導者でもなかったこと、民主主義については
ルソーとはかなり異なる思想をもったこと、『続一年有半』の副題について
いるのだが、終生「無神無霊魂」を貫いたこと、そして、日本の三味線音楽に
ぞっこんだったことだけを最後に強調しておこう。
▼ここまで、読んでくると、子規のいうように『際物』でなくても、ちょっと
変った「本」であるようだ。
ここには、『続一年有半』の「宗教」についての記述の紹介はない。
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