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2012年12月12日21:57

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■兆民と子規(5) 「兆民の妻」 付録:子規家系

●2012年12月12日(水) 晴れ

 ▼妻はドアを開けるなり、
  「うわぁっ、さぶい、さぶい。めっちゃ冷えてるでー」
  と叫んで、家の中に駆け込んできた。
  「へぇっ、そうなん? ちっとも知らんかった!」

  私といえば、家の中でずっと寝ていたからだ。
  12月は年休消化のため3日も休みがあり、土日の休みと
  年末年始の休みを会わせると、今月は15日の休みがあり、
  月の半分は休んでいる勘定である。

  したがって、仕事は密度が上がってタイトで、極めて忙しい。
  今月だけでなく、この忙しさは正月、出勤日1日を挟んで8連休となる
  1月まで続く。

  晩飯は、サゴシの塩焼きと、妻の買ってきたトンカツ、きのうの残りの
  白菜と大根に豆腐と豚のバラ肉を炊き合せたもので、簡単に済ませ
  「兆民と子規」の続きを書いている。

  それも、ちょっと横道に入って、サイト『万年書生気分』からの引用である。


  ●中江兆民の妻

   ▼松永昌三『中江兆民評伝』を読んでいたら、国立国会図書館所蔵という
    中江兆民の妻と子供たちの写真があった。
    第二子の丑吉がまだ生まれたばかりのようだから、兆民夫人は30代ぐらい
    だろうか。少々かすれて見にくいが、意外と美人である。

    桑原武夫「人間兆民」(『中江兆民の研究』所収)の、幸徳秋水と岩崎祖堂の言に
    よると「美人とはいえぬが、たいそう姿のよいひとだった」ということだが、
    たしかに「美人」というより、可愛らしい感じの女性である。

   ▼松本清張『火の虚舟』によると、この夫人には「一部で或る噂」があったら
    しい。それは「ちの」が未解放部落の出身ではないかと、いうことである。
    これは三つのデータからの推理らしい。
    兆民は大阪に移り、第一議会では、その地の未解放部落を選挙地盤として
    代議士に当選していること。
    大阪の「東雲新聞」の論説では彼は「新民世界」と題して部落問題に対する
    世間の反省を促しているが、その中に「余は社会の最下層の更下の層に居る
    種族にして」「新平民にして、昔日公等の穢多と呼び做したる人物」なり
    という字句を使っていること。
    次には、「ちの」の身元がはっきり分かっていないこと。

   ▼以上のようなことから、そんな想像の説が生まれたようだ。
    兆民自身は土佐の士族であるが、部落出身の「ちの」を娶ったことにより
    彼が部落解放を主張したのではないか、というのある。
    このことについて、清張は「ちの」の本籍地信州洗馬村に調査を依頼し、
    役場の戸籍簿によると、代々神官の松沢吉宝の姉・わいの私生児として
    「安政三年八月十日生」とあるらしい。この松沢家のある洗馬村四九二番地は
    いわゆる特殊部落というわけでもないらいい。
    また「わい」が内縁を結んだ相手方は、戸籍面では空白になっているので、
    不明のようだが、とくに問題となっているところと結びつける証拠もない
    らしい。

   ▼もっとも、「ちの」が神官の家の出であることは、桑原の論文にも
    第一子・千美(竹内綱の三男虎治と結婚)の談話として記されており、
    清張の発見とはいえないが、ちゃんと現場で調査したということで、
    後の研究者にも引用されており、発表された1968年段階で、この「噂」は
    途絶えたようである。

   ▼この妻「ちの」(彌子・いさこ)は、兆民の長女・千美の話によると、
    三歳くらいのとき、江戸の御家人の家に養女にやられ、長じて越後の
    物持ちのところへ嫁ぎ、間もなく離婚。
    その後、武士あがりの人の仲介で、兆民と結婚したとのことである。
    (竹内千美「父兆民の思い出」)

   ▼渋江抽斎の息子・渋江保によれば、
    「(明治十七、八年頃)私は芝の桜田本郷町に住んで居たことがある。
    其の附近に金鯱館といふ下宿屋があつたが、其処に友人が居たので
    私は能く其宿へ訪ねて行つた。金鯱館は当時自由党の者の能く行つた
    宿で、其の女主人は後に兆民居士の細君になつた人である」
    (「中江兆民居士」)
    としている。

   ▼1901年(明治34年)4月、喉頭癌で兆民が、大阪・堺の寓居で臥せったとき、、
    そばで看病した「兆民居士糟糠の妻」とは、この女主人・彌子その人のようである。
    夫婦仲はよく、幸徳秋水は「夫としてその妻に真実に、父として
    その子に慈愛に」と述べているように、食事の際は、円卓で上下を設けず、
    仲むつまじい家庭だったようで、兆民は良き夫・良き父であった。


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