●2012年12月08日(土) 晴れ
▼職場の業務用携帯を持ち帰ったが、それに電話がかかってきた。
「作業が完了し、いまコントロールセンターにその旨、連絡終わりました」
毎年、12月の第2金曜・土曜に「消防設備点検」と「雑排水管洗浄」を
当てている。
金曜は出勤するが、土曜日は休み。休日出勤はしないので「作業立ち会い」は
ない。そのため、業者が作業完了報告の電話を入れてきたのだ。
▼いま時分のころで、もうひとつ思い出すバイトがある。
国鉄の臨時職員である。
国鉄の臨時職員のアルバイトは人気が高かった。それは「職員証」が
もらえるからだ。
「キセル」や「薩摩守」などという言葉は、いまではあまり使われないだろ
が、「キセル」は金属の雁首と吸口をつなぐ「竹の管」があるので中間運賃の
ごまかしに譬え、(刻みタバコが消えていきキセル自身ほとんど見なくなった)
また、薩摩守であった平忠度(たいらのただのり)をもじって、全区間を無賃乗車する
ことを「薩摩守」といった。
当時の貧乏学生なら、一度や二度の経験がある。
しかし、国鉄の臨時職員になると「職員証」で改札を通してくれた。
神戸駅の改札を入り、宮崎駅の改札を出るということができた。
▼当時の国鉄・兵庫駅は駅舎の南側に広い貨物の引き込み線があり、ここから
いまでも走っている和田岬線が出ている。
和田岬には三菱重工業の神戸造船所があり、また和田岬線から川崎重工・車輛工場
への専用線があったりして、貨物駅として兵庫駅は夜中も稼働していた。
冬場はボイラーを焚き、スチームを通して駅舎を暖房していた。
私は駅の南に設けられたボイラー室の、ボイラー技士の助手という職種を
得て、そこで働いた。
(制服の紺色の作業服と、小さめの帽子が貸与されたことを思い出した・・)
▼助手といっても、燃料として使っている石炭の運搬と、炉の底に落ちた燃えカスの
石炭殻を、2メーター以上もある長い長い鉄製の「掻き出し」熊手のような
道具で、炉の焚き口まで取り出し、ボタ山のような「石炭ガラ置き場」に運ぶ
仕事である。
ボイラーの温度が下がって来ると、技師が圧力計を見ながら石炭をくべる
指示を出す。大きなシャベルで焚き口から、なるべく奥の方へ石炭を放り込む。
▼夜通しの作業だから、ムダ話もする。
技師の一人は、姫路の方で農家をやりつつ「国鉄職員」をしている中年の男だった。
その人の父親も国鉄職員だったとか言っていたが、好人物で夜中、スケベな話を
しながら、いろいろ人生訓みたいなことを私に話した。
この仕事も夕方に入り、朝帰るものだった。
ボイラー室には、仮眠所と風呂が設けられており、技師は仕事が終わると
石炭の粉を洗い落とすため、必ず風呂に入った。
私にも風呂に入るように勧めたが、朝風呂では、帰るまでに体が冷えて
かえって風邪をひきそうなので、一度も入らなかった。
▼仮眠時間は1時間か2時間くらいあって、もう一人の技師と3人が交代で
寝ることになっていた。
わたしは、ボイラーの釜の横にある控室で、腹ばいになってあまり明るくもない
電灯の下で「本」を読んだ。
技師は「寝てもいいぞ。起こしてやるから」といってくれたが、だいたい「本」を
読んでいた。
大学生というものは、どんな「本」を読むのか、技師は「本」のタイトルを訊ねた。
三一書房から出ていた新書、ダニエル・ゲラン『現代のアナキズム』を読んでいた。
▼「アナキズムて、なんや?」と聞かれた。
私はどう説明したのか、思い出せないが、技師は「ふぅーん」というような顔して
「よう俺にはわからんが・・」と言って、世の中はそうそう理想ばかりでは
事は運ばない、みたいなことを私に言った。
ボイラー室の中は「温室」より暖かく、外は寒かった。
石炭を猫車で石炭置き場からボイラー室まで運び、燃えカスを掻き出しては
ボタ山へ運んだ。分量が多いときは、リヤカーで挽いた。
路面の引き込み線の向こうの駅舎の灯りが見えるだけで、あとは
真っ暗な闇だった。
▼ある朝、外に出ると雪が降っていた。
年内に雪の降るのは珍しいことであった。
石炭の山にも、石炭殻の山にも、線路にも、ボイラー室の小屋の屋根にも
柔らかで真っ白い綿のような雪が薄く積もっていた。
これからの進路を迷っているときだった。
雪は新鮮に感じられた。
何かが始まると感じさせるものだった。
『現代のアナキズム』 (三一新書 1967年6月刊)
ダニエル・ゲラン (著), 江口 幹 (翻訳)
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