●2012年10月23日(火) 雨
▼宮崎の町は、こじんまりとして、分かりやすかった。
国鉄・宮崎駅前から、まっすぐ西へ向かう大きな道路が「高千穂通り」で、
高千穂通りは、宮崎市の中央を南北に走る「橘通り」の6丁目と交差した。
交差点はロータリーになっていて、このロータリーをそのまま、まだ西に
行くと、現「宮崎大橋」の架かる大淀川に出た。
川の向こうは、生目村の方へ続く。
▼いまの橘通りの「3丁目」が、かつての「6丁目」に当たり、丁目が半分になった。
ロータリーのあった当時の「6丁目」には、「橘百貨店」と「山形屋」の2つの
デパートがあった。
「山形屋」は、私が宮崎に引っ越した頃に、橘通り1丁目から6丁目に移ってきた。
宮崎の町の賑わいが、5丁目、6丁目と北の方へ移動してきたのだ。
▼大淀川は、高千穂通りの西端「宮崎大橋」から南下し、「高松橋」の下を流れ、
中洲のある鶴の島あたりで、ほぼ直角に東へ曲がって、「橘橋」で橘通りと交差する。
橘通り1丁目は「橘橋」の北詰で、川を挟んで、橋の南側が「大淀地区」である。
国鉄・南宮崎駅のある大淀地区は、東京や大阪からの急行列車のターミナル駅で、
むかしは栄えていたが、私が引っ越したころには、もう寂びれた感じだった。
橘橋から東の河口の方を望むと、台風で流され橋桁だけが残っている木造橋と、
日豊線の鉄橋が見えた。
▼淡路から東京へ、東京からまた淡路。 そして今度は宮崎へ。
小学4年で3回目の転校生になった私は、どこか風来坊のような感じで、
宮崎の町を、東京のときと同じように物珍しくあちこち歩きまわった。
橘通り2丁目の交差点を東に5、6分歩いたところに宮崎小学校があった。
小学校の東正門の前あたりだったと思うが、県警があった。
そこに職員宿舎が併設されていて、柔道場やテニスグランドもあった。
お父さんが警官だったのだろう、大津山くんと道場で相撲をとったり、
テニスをした。
▼東正門のちょっと南に、下駄屋の山崎君の家があり、学校の北側には
太田さんの家があった。
西の通用口から出ると、勧業銀行があり、北隣は県立図書館が角っこにあった。
図書館の前が県庁で、ここから橘通り2丁目に行く途中に公会堂があり、
松本くんの家があった。
▼橘通り2丁目から3丁目かけて、塩田くんの金物店があり、3丁目角の
食料品店「ミシロ」を西へ折れて、アーケードを通って行くと園田さんの
時計屋があった。
アーケードは「大成座通り」といい、(大成銀座だったかな)、突きあたりが
映画館「大成座」だ。山西くんの「玉寿し」は大成座の前にあった。
大成座のところから北へ、2本の道があり、それが「西橘通り」と「黒迫通り」で、
ふたつの道が交わる大成座前の三角地は空き地で、私たちは「原っぱ」と呼んでいた。
原っぱには、夜店や青空市がたった。
▼「原っぱ」から西橘通りの方を北にしばらく進むと、左側に肉屋、右側に看板屋が
あった。
よく見ると看板屋の横手に細い露地があり、入っていくと『どんぐり』という
大衆食堂や、『ふみ』という小料理屋が、軒と軒とをくっつけあって並んで
いた。
露地の先は『ライオン市場』に続いていて、路地の一番奥の、市場の魚屋の手前に
間口一軒半もない『一の字』という飲み屋があった。
そこが私の家だった。
幅1メーターちょっとの露地の真ん中は、溝になっており、ドブ板で覆われいていたが、
いま思うと、滝田ゆうの絵に出てくるような光景だったと気づく。
滝田ゆう『昭和ながれ唄』から
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