●2012年06月23日(土) 晴れ
▼昼まえ、玄関のチャイムが鳴る。
共同購入の商品が届いたのだろうと、
思い、そのまま寝ていた。
「あんた、共同購入がくるから、あとで
家の中に入れておいてね」
そう頼まれていた。
散髪にも行かねばならない。
夕方までには起きるだろう、
そう思って寝ていた。
▼洗濯物を取り入れ、共同購入の商品を
冷蔵庫や冷凍庫に入れ、
しばらくすると、妻が帰って来た。
「さっきまで、寝てた・・」
「どうせ、そんなことだと思ってたワ」
「一食抜いたから、ちょっと痩せたかな〜」
「一食くらいで、痩せるわけないでしょ!」
そんなことで、きょう一日が平穏に暮れた。
▼このあいだ、淡路に行ったとき、
「よう昔のこと、覚えとるなー」
と言われた。
年に一回か、二回しか来ない淡路は
いつまでたっても、時間は止まったままだ。
「ここにあったダンジリ小屋、いつなくなったの?」
「もう、だいぶ前のことや」
「ええ、そうなん・・?」
「もう、かなり前やで」
「だったら、この前に来たときも、もうなかったんや・・」
「ああ、もうなかった」
私の中の淡路は、眼の前の変化にもかかわらず、
むかし脳裏に刻まれた原画が、修正されることがない。
▼ところが、毎日出勤する道筋の光景、店舗やビルの変化は
前の記憶がどんどん消されて、
いつも現在の時間に合わされている。
いま建設中のワンルール・マンションは、もと
ラブ・ホテルがあったところだ。
これも、マンションが完成し半年もたてば、忘れて
しまうだろう。
信号のそばに出来たコンビニ、ここは元なんだったんだろう。
更地になって、そのあと時間貸しの駐車場なった、ここは
まえ、何が建っていたのか、もう思い出せない。
▼「他人の子は、すぐ大きくなる」というのも、これと同じ
ことなのだろうか。
前の記憶の原画と、いまの実像の違いを一瞬にして
修正する。
毎日、毎日、少しずつ変化し、いつ
どこがどうか変ったか気づかないうちに
成長する自分の子供は、いつも現在の時間に
焦点が合わされている。
▼入れ物の「私の身体」は、まちがいなく経年劣化し、
時間の集積がある。
しかし、「私」という意識、それは陽炎のように立ち昇り、
ゆらめいている現象のようであり、
ゆらめいている間だけ、時間が流れている。
平穏に一日が暮れた日、
消える時間や、止まる時間や、流れる時間の
ことを思う。
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