●3月17日(土) 雨
▼ここに2冊の詩の「本」がある。
一冊は、30篇の「死」をめぐるアンソロジーで
もう一冊は、24篇の「記憶」についての詩集である。
ともに発行日付は、「2012年3月30日」で
これからやってくる未来の日付になっている。
アンソロジーは、谷川俊太郎・編『祝魂歌』(朝日文庫)で、
詩集は、長田弘『記憶のつくり方』(朝日文庫)。
『祝魂歌』は、2003年7月に、
『記憶のつくり方』は、1998年1月に刊行されたが、
あれから一年のになる「3月11日」を前にして、
「3月30日」の日付で再版されたものである。
▼「現代の代表的な詩人が、死をめぐる30の詩を選ぶ。
死は行き止まりではなく、新たな魂の旅立ち。
プエブロ古老『今日は死ぬのにもってこいの日だ』、
高見順『電車の窓の外には』、
趙柄華『別れる練習をしながら』。
大震災の前も後も、私達に深々とした息を吹き込む」
(谷川俊太郎・編『祝魂歌』/朝日文庫)
「まだ死を知らぬ頃に体験した、祖父の火葬の夜。
肩車されて頭上に広がる世界。
路地の奥。竹林。雨――。
かつて経験し、ふとした隙に思い出される記憶。
今も心の中で光を放ち続ける情景を描く24篇の詩は、
わたしたちの人生の一瞬の輝きを照らし出す」
(長田弘『記憶のつくり方』/朝日文庫)
▼「3・11の前も後も私たちを深く慰める、死者との別れをめぐる30の詩」
というキャッチコピーの『祝魂歌』は、鎮魂の歌でもある。
「わたしたちは、3・11を経験した。その日の前と後では『死』の意味が
変わってしまった。いたましすぎて言祝ぐ気になれない死もあることに
気づいてしまった」
「どんな死も、壮絶でない死はない、その死をみちびく生というのも、
どんな生でも、壮絶きわまりない、という感想が浮かびあがる」
解説には、そう書いてあった。
▼「記憶は、過去のものではない。
それは、すでに過ぎ去ったもののことでなく、
むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。
とどまるのが記憶であり、
じぶんのうちに確かにとどまって、
じぶんの現在の土壌となってきたものは、
記憶だ」
あとがきには、そう書いてあった。
▼3月11日を前にして、私は春を待つ思いだった。
湊川商店街に流れる『春よ来い』の童謡を聞いても、
テレビに流れる『土筆(つくし)』の映像を見ても、
『あれから一年』が過ぎたことを思っていた。
『希望』とは何だろうかと考えたり、
『忘れているでしょう』と言われそうなことを思い出した。
▼瓦礫処理について、いまようやく、
他のところでも、やろうと言い始めた。
これはいいことだ。
忘れることもいいことだけど、
思い出すことはいいことだ。
▼きょうは雨。
ひと雨ごとに、出勤のときの
街路樹のコブシの蕾がふくらんでいく。
私は『失う』ということを思いながら、
きっとそれは自分のことのでもあるように、
この「詩」をことを思い出している。
雨フレバタマシイノ
雨フレバタマシイノ
ウルミテ春ヲタダオモウ
キヨイツメタイ暁ガ
次第ニアケテユクヨウナ
ウツクシイ手品ガイマハジマル
マダ来ヌ時間ノ豊富サヨ
私ハ小サイ種子ノヨウニ
ヤサシイモノニタダコガレル
春ヲミタコトモナイヨウデ
アア私ハ何ニ逢ウ
時クレバ私モ髪挿(カザシ)ニナルダロウ
或ハ花輪ニ編マレルダロウ
風ニユラメク樹々ノ上デ。
雨ニケムロウ梢ノサヤギ
イマダ花ヲユルサヌ
一ト時ウツクシイ渇望ノスガタ
ワタシノココロトソレガミエル
(永瀬 清子/詩集『諸国の天女』)
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