●9月12日(月) 晴れ
▼こちらを発つとき、宮崎は、雨または曇りの予報だったのだが
10日も11日も晴れて、日差しは厳しかった。
義母の13回忌で、妻の父方の里、新田(にゅうた)の墓所を訪れた。
小学生の頃、この近くの西都原古墳群に遠足で来たが、このあたりでは集落ごとの
墓地がところどころに点在しており、それが、寺にある墓所とはまた別の趣を
かもし出している。
自衛隊の「新田原基地」で知られる「新田」は、宮崎県高鍋町の南に位置する
海抜約300メートルの台地に開かれた耕地で、「新田」の名前のとおり四国などから
入植した人たちが開墾したと聞く。
30基ほどの墓石が並び、その中に、妻の旧姓と同じ苗字の墓が5、6基建っていた。
墓の庭の鶏頭の赤紫がまぶしい。
▼菩提寺は「
日陽山・聖歓喜院・黒貫寺」といって、「景行天皇と日本武尊が熊襲征伐の
とき、六年間ここに留まり」「天慶九年(946年)に隆元和尚が開創、今から
七百年ほど前に勅願寺となり、歴代皇族の加護を受けた」と寺の石碑にその由来を
刻んでいる。
当時は「日向の国、第一」の寺院として栄え、江戸時代には365石の寺領を
有していたという。
明治七年の火災により、山門を残してすべての堂宇が焼失し、いまではその面影はない。
わずに残った境内の杉やイチョウの大木に昔を偲ぶばかりである。
▼本堂で十三回忌の供養を行ったが、声明(しょうみょう)というのか、
地声で籠るような、それでいて低く朗々とした読経に、私は軽く眠った。
妻と結婚する前、神戸から手紙を何度も書いた。
読み返すと、自分がいやになるので投げるようにポストに放り込んだ。
何十通か、妻へ書いたラブレターには、一通の返事も来なかった。
その後、私は妻と結婚して、「まだ、神戸から手紙は来ないと?」と
私の手紙を楽しみにしていたのは義母だったことを知った。
孤立無援で私が髭を生やしていた頃、「ヒゲがよう似合う」と義母はかばってくれた。
そして、義母は話のとき、よく口をすぼめて上品に「ほ・ほ・ほ・ほ・・」と笑ったのを
思い出す。
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