mixiユーザー(id:1040600)

2011年04月13日21:37

28 view

■『レベル7』と『言葉』

●4月13日(水)  晴れ

 ▼一昨日だったか、
  NHKの夜9時のニュースであったと思うが、
  現在、ウィーンで開催中の原子力安全条約検討会合に
  出席している国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長に
  ニュースキャスターがインタービューする場面があった。

  「今回の福島第一の事故のレベルは・・」と問われて、
  天野事務局長は、「それは日本政府の決めることです」と答えていた。


  私はびっくりした。
  私はてっきり「事故のレベル」は、IAEAが決めるモノだとばっかり
  思っていた。
  それを決定するのは、事故を起こした国の責任において宣言するらしい。


  そして、昨日、4月12日、日本政府はこれまでの「レベル5」から
  一挙に「レベル7」に引き上げた。
  
  ・福島第1原発:最悪レベル7 チェルノブイリに並ぶ
  ・福島第1原発:最悪評価、世界に衝撃…レベル7
 

 ▼「レベル7」の評価については、
  「チェルノブイリに遠く及ばず」とするIAEAのフローリー事務次長の会見や、
  「レベル7は驚きでない」とする米原子力規制委員長の発言などが
  報じられている。

  また、枝野幸男官房長官は13日の記者会見で、
  東京電力福島第1原子力発電所の事故の評価が
  最悪の「レベル7」に相当する可能性があると、
  すでに「3月下旬」に認識していたことを明らかにしている。



 ▼この間、福島第一原発事故に関する「情報の公開」や「広報の在り方」については、
  すでに、さまざまの批判があがっている。

  そして、自分の頭で考えようとする人達にとっては、
  うすうすではあるが、間違いなく、いま進行している事態について
  「予断を許さない」ものであることを
  感じ取っていた。

  ・テレビ、新聞では報道しない「原発事故」報告
  ・上杉隆氏らによる原発設計者 上原春男氏共同インタビュー


  だから、私たちも「レベル7」は遅きに失したものではあっても、
  決して、驚くにはあたらないものである。


 ▼驚くのは、次のような報道に接するときである。

   ◇住民感情逆なで 不用意…「首相発言」に与野党

    菅首相が13日、東京電力福島第一原子力発電所の避難区域に関し、
     当分「住めない」と不用意な発言をしたと報道され、地元はもとより、
    与野党にも波紋と衝撃が広がった。

    自民党は「避難区域の住民感情を逆なでするものだ」と反発し、
    民主党内からも「余計な発言」と批判があがった。首相は発言を否定したが、
    東日本大震災後、軽率な言動が続いているのも事実で、首相としての資質が
    改めて疑問視され始めた。

    首相発言は13日、松本健一内閣官房参与との会談で出たとされた。
     松本氏が会談後に記者団に明らかにしたもので、首相は報道で波紋が
    広がると、松本氏に電話し、記者団に訂正させた。

    首相は松本氏のエコタウン構想には同調したという。
    暫定評価が最悪の「レベル7」となった福島第一原発の放射能漏れは収束の
    見通しが立たない。
    首相にすれば、「放射能汚染の恐怖にさらされた場所より、エコタウンで
    生活してもらいたい」(首相周辺)との思いがあったとみられる。

    もっとも、震災の復興策を検討する「東日本大震災復興構想会議」は
    14日が初会合で、「これから新たな街づくりを議論するというのに、
    首相が結論めいた話をすべきではない」との声も出ている。


    与野党にも波紋が広がった。民主党の岡田幹事長は13日、記者団に
    「松本氏の発言は不用意だ」と松本氏を批判した。
    公明党の井上幹事長は、首相発言だとの前提で、記者団に「とんでもない話だ」
    と憤った。

     (2011年4月13日20時41分 読売新聞


 ▼果たして、これは「不用意な発言」だったのだろうか。
  もし、事実として「当分、住めない」のであれば、そのことを
  地域の人々に、厳然とした事柄として伝えねばならないし、
  その危険性も考慮の中に入れておかねばならぬのなら、
  たとえ先のことは変わらぬとしても、その腹をくくらねばならない。

  なのに、そのことが
  どうして「不用意な発言」としか思われないのか。


  「言わなくてもいいことを言ってしまったのか」
  「言い方、表現方法を間違えたのか」
  もしそうであれば、それは「不用意な発言」であろう。

  しかし、問題は
  何を伝え、何を説明し、何を共通の認識とするか
  その目的において「失敗」している。

  あるいは、そのような目的のために「言葉」があるとは
  ちっとも思っていないのである。

  「言葉」はパフォーマンスであり、恰好であり、演出なのだ。
  だから、彼らは「不用意な発言」と思うのだ。


 ▼悲惨な事実の前に、私たちは「言葉」を失う。
  真摯であればあるほど、その思いは深く、黙ってしまう。

  もはや立ち上がれそうもないという思いが、沈黙を支配する。
  やがて私たちは「希望」を失い、「自分」をも失う。


  しかし、そんなとき、悲惨に立ち向かうことができるのは、
  やっぱり「言葉」なのだ。
  16年前の震災から1年が経ったとき、まだまだ遠い道のりを思って
  私たちの『震災記』というのが作られた。
  
  その巻頭に掲げたのは、次の言葉であった。


      財がなくなっても、何も失われてはいない。
      やる気がなくなると、多くが失われる。
      誇りがなくなると、すべてが失われる。

     ――ルードリッヒ・エアハルト (元 西独首相)――



0 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する