●3月27日(日) 未明
▼金曜日、朝礼で
「28戸が用意できた」という報告があった。
東北地方・太平洋沖大地震と津波による被災者を、
神戸市が受け入れるための住宅である。
当初、神戸市は200戸の受け入れを決めていたが、
急遽、500戸に拡大した。
そのため、私が勤務する職場も、
神戸市の「指定管理者」として市に代わって管理している住宅で、
すぐにでも住めるようにできる部屋を調査した。
そして、数百戸のうち、空室である約60戸の物件で、
4月1日までに、入居できるように準備し、確保した
その「部屋」の数が28戸だった。
▼いま、全国の自治体で、
約20万人といわれている「被災者」の受け入れ態勢を
急いでいる。
できれば、町・村・集落の単位で、
被災した人たちのコミュニティを壊さないように、
そっくり、そのまま「疎開」させるのが
いい。
しかし、急に準備できるのは
そんな大きな規模では不可能だ。
たった28戸だって、
茶碗・箸・ポットといった台所用品から
毛布・布団・カーテンまで、
着の身着のままで入居する人達が困らぬように
その用意は大変だ。
▼入居する前には、「洗い」といって
部屋の掃除をする。
数カ月、空き室だった部屋を掃除する。
ホコリがいっぱいたまっている。
テレビで、その模様を映していた。
「気持よく、入ってもらおうと思います・・」
そう言って、洗い屋さんのその人は照明器具のホコリを
はらっていた。
▼テレビを見ると、思うことが、いっぱいである。
そして、一方では
もう、黙っていたい
という気がしてくる。
関係ない人には、
なんで夜遅くまで
いまだに
テレビなんか見ているのだろうと、
思うだろう。
或る意味、
それは当然のことだ。
「関係がない」と思っている人には、
事実、それは関係のないことだから。
▼16年前の阪神・淡路大震災の日、
私はもうすぐ二歳の誕生日を迎える、おびえるショウを連れて、
椿谷公園に行った。
1月17日は、風の強い日だった。
下の長田の方からは、火の手は見えなかったが、
火事で黒煙が立ち昇っていた。
私はショウをあやすために、
家からもってきた、正月にショウと凧揚げした
手製の凧を空に揚げた。
凧は、風に乗って、ぐいぐい
黒煙と青さのある空に揚って行った。
団地のベランダでは
いつものように
のんびりと、洗濯物を干す
主婦の姿が見えた。
▼誰を非難するものでもない。
しかし、たとえ
それは「日常」だったとしても、
当時、マスコミが用いた「温度差」という言葉を
嫌った。
しかし、今回は、少しちがう。
あれから16年たち、
ボランティア元年といわれた年から
ずいぶんと、人々の連帯は進んだ。
そして、天災と人災の区別も
つくようになった。
▼「関係ない人」には、関係ないかもしれない。
しかし、それは錯覚であることも、はっきりしている。
そのことは、放射能による「環境汚染」だけでなく、
私たちの「くらし」に、ボディ・ブローのように
及んでくるからだ。
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