●3月17日(木) 晴れ 小雪 雨 曇り
▼電話がかかってきた。
「ことしの花見は、どうする? やるの?」
仲間のひとり、電話の話の長い男からだった。
「例年通り、4月最初の日曜日、ことしは、えーと3日が日曜日かな?」
私は壁のカレンダーを見ながら、そう言った。
2000年、春、「希望退職」したその年から、私たちは
毎年、雨の日も「花見大会」をやってきた。
多くは、4月の第一日曜日であるが、暖かい年・寒い年や
その年の暦の巡りで、開催日の「日曜日」は3月末であったり
4月初旬であったりした。
▼きのう、きょうと、寒い日が続いている。
3月中旬なのに、晴れたと思えば小雪が降ってくる。
あの「神戸」のとき、1月で、やはり寒かった。
私は、裂けた道路を用心しながら運転する車の助手席に乗り、
商品の腐敗などをチェックするため、
各店の「食品衛生」のパトロールをしていた。
寒いのはつらかったが、「夏でなくてよかった」とも
思っていた。
▼電話をかけてきた彼は、
「震災のときのこと」を思い出し、そして
いまの「東日本大震災」の事態を見ながら、
誰かに何かを言いたくて、
私に電話をかけてきたようだ。
・・・・
あのとき、神戸と、たったちょっと隔たった大阪でも
「温度差」があった。
しかし、いま私たちの立ち会っている「事態」について、
「温度差」はない。
目に見えない「思い」や、形に見える「思いやり」に違いが
あるだけだ。
「賢明な人」は、事態の推移がはっきりしないうちは、
明言を避け、立場をわきまえ、黙っている。
ほんとうに思っていることを
黙っているのに、耐えきれなくなって
彼は電話をかけてきた・・。
▼ところで、あの震災のとき、まだほとんど「携帯電話」というものは
はなかった。
本部と連絡が全くとれないから、
それぞれの部署、個人は自分の判断で動いた。
「自分が何をすべきか」
ただ、その思いで動いた。
上の指示を仰ぐ術はなかったからだ。
そんなとき、「情報伝達」に
わずかな携帯電話は威力を発揮した。
それによって、全体の状況がいまどうなっているのか、
私たちは、はじめて知った。
▼震災後も、私は「ケータイ」を持たなかった。
「ゲーム」も「ケータイ」も嫌いだから。
しかし、練炭や七麟が都市ガスに変わっていくように、
自分だけが「ケータイ」を持たない訳には
いかなくなった。
ほとんど使わない着信専用の「ケータイ」ではあるが、
親戚の危篤のときや、大きな知らない駅での待ち合わせのとき、
「ケータイ」は役立った。
▼「そこは、海抜は何メートルあるの?」
「さあ、よく知らないけれど・・」
「むかし、神戸でも津波があったらしいね。居留地のあたり・・・」
私は、もう電話を切りたかった。
花見のときに、ゆっくり話そう。
話しても、話しても、
思いを伝えることは、むずかしいかも
しれないが・・・。
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