mixiユーザー(id:1040600)

2006年06月28日00:00

573 view

●身辺雑記(86)/■桐下駄


フォト


■桐下駄

 ●「こみ」さんがデジカメで撮った写真をアップしていた。
  それで私もデジカメを出してきて、撮ってみた。

  狭い玄関に並べられた「桐下駄」。
  これは、昨日、妻が遊び心をおこして買ってきたもの。
  私と妻のお揃いである。



 ●高校時代、1年生までは、私たちの高校の男子は履物は
  「下駄」だった。昭和36年ころの話であって、大正や
  昭和初期のことではない。

  冬には足袋を履き、やはり「下駄」で登下校した。
  学校の中でも、体育の時間以外は「運動靴」は履かなかった。
  教室、廊下は「土足厳禁」で裸足だった。外に下りるとき、
  下駄を履いた。校内も下駄で歩いた。クラブの部室は土間だったので
  下駄で出入りした。


  だから、家でも「下駄」だった。普通の服装(洋装)をして
  足元は「下駄」というスタイルは、当時の宮崎市内の「高校生」の
  「男子」の普通の格好だった。


  旧制高校の名残か、まだ「バンカラ」が、当時の高校男子の
  「ダンディズム」だったのである。


  それが、文部省の指導要領によるものだろうと思うが、翌年あたりに
  「下駄履き禁止令」が出た。生徒たちは激しく学校側に反発した。


  他校では「運動靴」になっても、私たちの高校は、教頭と大衆団交を
  やったりして、しばらく「下駄履き」が実力で行使されていた。



 ●私は淡路から東京、東京から淡路、そして淡路から宮崎へと、
  小学校を四回、転校したが、宮崎に来て一番びっくりしたのは
  休み時間に教室から校庭に出て遊ぶとき、裸足で校庭に下りること
  だった。
  淡路でも、校庭の地面に下りるときは、「運動靴」か、「アサブラ」と
  呼ばれるゴム製のサンダルを履いた。東京では中庭はコンクリートの
  上にゴムか何かが薄く張ってあって、モップで油を引いた教室と
  廊下、そして、中庭、運動場も、みな土足のズック、「運動靴」だった。


  しかし、宮崎市では昭和30年、小学生は校庭や運動場では
  裸足で走り回り、遊んでいた。宮崎の気候風土と、のんびりした
  県民性が「裸足」を許容していたし、そして、当時、まだ貧し
  かったのも事実だ。県民の一人当たり所得では、いまも全国最下位に
  近いところに位置するが、当時は、絶対的に「貧しかった」。
  (でも、県庁所在地で、しかもその中心にある「宮崎小学校」は
   豊かなほうだったのに・・)




 ●しかし、昭和36年ころには、もう宮崎も貧しくはなかった。
  貧しくて「下駄履き」だったのではなく、オシャレのために
  「下駄」を必要とした。その証拠に、割れたり、歯がすり減ったり
  する「下駄」のほうが、「運動靴」より履物代としては高くついた。


  学校側は、私たちの高校だけが「下駄履き」なので、やきもきした。
  県下でトップの進学校だったし、伝統があり、県の要職を占める人や、
  県外の宮崎県出身者で出世した人の多くが、私たちの高校の
  卒業生であるような、そのような「エリート意識」もあったので、
  新しく赴任してきたK校長は、文部省や教育委員会、また他校の
  校長への手前上、どうしても「下駄履き禁止」を徹底せねば
  ならなかった。



 ●学校側というか、お役人の考えることは、いつも「姑息」だ。
  もちろん、「恩讐の彼方」ほど前の話であり、今の時点から思い
  起こすと、それも「かわいらしく」「ほほえましく」も思えるのだが・・。

  高校側は、いままで「土足厳禁」だった教室や廊下をすべて
  「土足解禁」にして、ただし「下駄履き」は禁止とした。

  私たちも、さすがに板張りの廊下や教室を下駄で歩くことは
  できなかった。ガタガタと下駄はうるさくて、かなわなかった。
  いつの間にか、男子もみな「運動靴」に換った。



  小学校から高校まで、ずっといっしょだったY君の家は「下駄屋」だった。
  「下駄履き禁止令」が出た前後に、つぶれてガソリンスタンドに
  換った。



 ●結婚してからしばらくの間、私は夏には浴衣を着たし、正月には
  和服を着た。そして、下駄を履いた。

  下駄は清楚で、気持ちよかった。



  妻が買ってきた「桐下駄」には、歯がない。
  裏は平たく合成樹脂の「底」が張られていて、「ポックリ」のように、
  歩くたびに、「カラン、コロン」と桐の木の乾燥した音が響いた。




■案内
  ・日記/「Home」案内



0 10

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する