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2010年06月14日20:57

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■<信>とは・・・

●6月14日(月)  晴れ

 ▼メモ
  ・傘を持って出たが、降らなかった。
   昼から気温が上がり、蒸し暑くなる。
  ・消防設備点検、一軒だけできなかったという。
   やはり、という思いが残る。新・理事会は、
   この一軒にどう言うか。あす、理事会。
  ・消防署へ「防火管理者」の「選任・解任届」提出。


 ▼寝て起きると、サッカーのワールド・カップ、
  「日本−カメルーン戦」をやっている。
  前半が終わりかけで、日本が1点入れてリード。
  妻に「日本が勝ってるで」と伝えるが、「う、うーむ」
  と眠ったまま。

  いま、後半が始まった。

    ・・・・


 ▼昼休み、また阿満利麿『無宗教からの「歎異抄」解読』を読む。

  この「本」の構成は、
  第1章 宗教はなぜ「難しい」のか
       ――『歎異抄』を読み解くために
  第2章 宗教は人を「幸せ」にするか
       ――三つの問答
  第3章 「無力な私」への目覚め
       ――自己中心的思考と宗教
  第4章 「常識」を超える宗教
       ――親鸞から唯円へ伝えられた信心
  となっている。


 ▼第1章は、『歎異抄』あるいは「宗教」というものへの導入部である。

  たとえば、人はどうして宗教を受容することを拒否するのか、
  それは「必然性」が自覚されないからだ、と云う。


  また、「常識」を超えなければ宗教を受容することはできない、とも云う。
  法然・親鸞の教えでは、まず「阿弥陀仏」というもの(真理)を
  信じなければ、一歩も前に進めない。

  「常識」とは、いつも自分の考えが判断の基準となる「自己中心性」と、
  社会から要請される「道徳」の別名にほかならない。
  
  これが、宗教の「躓きの石」となる。


  『歎異抄』について言えば、「なぜ念仏するのか」や「他力という困難」がある。


 ▼ところで、『歎異抄』は次のような構成になっている。

    序文
    第一章〜第十章    ・・・ 「御物語(師訓篇)」と云う。
    第十一章〜第十八章  ・・・ 「異義批判(歎異篇)」と云う。
    結文
    流罪の記録


  「本」の第2章は、『歎異抄』のなかの問答体の部分(九、十三、二)を取りあげ、
  本願念仏の教えに対する疑いや、信心を得るうえでの根本的な問いに答えている。

  また、第3章では、『歎異抄』十一〜十八(歎異篇)を取りあげ、親鸞の教えとは
  異なる考え(異義)に対して、なぜそれが誤りであるか唯円の批判に添いながら、
  宗教というものに近づいていく。

    ・・・・



 ▼またまた、まったく私事のメモ書きで、この「日記」を読まれる方にとっては、
  なんら意味のない文章を書き連ねている訳である・・。


  きょう、「本」の第3章を読み終わり、いよいよ『歎異抄』一〜十の師訓篇に
  入る。

  私の関心事に触れる「なぜ念仏を称えることが必要か」が出てくる。

  「今日でも、大切なのは信心であって口称念仏ではないという『真宗信者』も
   少なくはない」(p.147)と書いてある。


  では、なぜ、それが誤りなのか・・・。

  このあたりが、ひとつの、<信>の成立に関わる、ぎりぎりのせめぎあいである
  部分のように思う。



  非常に面白い。


    ・・・・



  

  

 
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