●6月14日(月) 晴れ
▼メモ
・傘を持って出たが、降らなかった。
昼から気温が上がり、蒸し暑くなる。
・消防設備点検、一軒だけできなかったという。
やはり、という思いが残る。新・理事会は、
この一軒にどう言うか。あす、理事会。
・消防署へ「防火管理者」の「選任・解任届」提出。
▼寝て起きると、サッカーのワールド・カップ、
「日本−カメルーン戦」をやっている。
前半が終わりかけで、日本が1点入れてリード。
妻に「日本が勝ってるで」と伝えるが、「う、うーむ」
と眠ったまま。
いま、後半が始まった。
・・・・
▼昼休み、また阿満利麿『無宗教からの「歎異抄」解読』を読む。
この「本」の構成は、
第1章 宗教はなぜ「難しい」のか
――『歎異抄』を読み解くために
第2章 宗教は人を「幸せ」にするか
――三つの問答
第3章 「無力な私」への目覚め
――自己中心的思考と宗教
第4章 「常識」を超える宗教
――親鸞から唯円へ伝えられた信心
となっている。
▼第1章は、『歎異抄』あるいは「宗教」というものへの導入部である。
たとえば、人はどうして宗教を受容することを拒否するのか、
それは「必然性」が自覚されないからだ、と云う。
また、「常識」を超えなければ宗教を受容することはできない、とも云う。
法然・親鸞の教えでは、まず「阿弥陀仏」というもの(真理)を
信じなければ、一歩も前に進めない。
「常識」とは、いつも自分の考えが判断の基準となる「自己中心性」と、
社会から要請される「道徳」の別名にほかならない。
これが、宗教の「躓きの石」となる。
『歎異抄』について言えば、「なぜ念仏するのか」や「他力という困難」がある。
▼ところで、『歎異抄』は次のような構成になっている。
序文
第一章〜第十章 ・・・ 「御物語(師訓篇)」と云う。
第十一章〜第十八章 ・・・ 「異義批判(歎異篇)」と云う。
結文
流罪の記録
「本」の第2章は、『歎異抄』のなかの問答体の部分(九、十三、二)を取りあげ、
本願念仏の教えに対する疑いや、信心を得るうえでの根本的な問いに答えている。
また、第3章では、『歎異抄』十一〜十八(歎異篇)を取りあげ、親鸞の教えとは
異なる考え(異義)に対して、なぜそれが誤りであるか唯円の批判に添いながら、
宗教というものに近づいていく。
・・・・
▼またまた、まったく私事のメモ書きで、この「日記」を読まれる方にとっては、
なんら意味のない文章を書き連ねている訳である・・。
きょう、「本」の第3章を読み終わり、いよいよ『歎異抄』一〜十の師訓篇に
入る。
私の関心事に触れる「なぜ念仏を称えることが必要か」が出てくる。
「今日でも、大切なのは信心であって口称念仏ではないという『真宗信者』も
少なくはない」(p.147)と書いてある。
では、なぜ、それが誤りなのか・・・。
このあたりが、ひとつの、<信>の成立に関わる、ぎりぎりのせめぎあいである
部分のように思う。
非常に面白い。
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