●6月12日(土) 晴れ
▼メモ
・妻といっしょに家を出る。
妙法寺駅の改札で、
「じゃぁ、楽しんで来てね」と、
妻の声援を受け、
私はこみさんとのデイトに向かい、
妻は仕事に向かう。
・幸い、雨に降られなかった。
・夜、サイコたち来る。
▼きのう、つまり12日、「日記」を予約したまま眠ってしまった。
一夜明け、いまごろになって、その「日記」を書いている。
きょうは雨が降っている。
妻は、9時に迎えの車が来て、
舞子ビラでのシャンソンのディナーショウに
出かけて行った。
妻が歌う曲目は『捨てないで・・』。
「しょうもな! 何が捨てないで・・よ。
すがる女なんか私には似合わんわ。
でも、切々とそれを表現しなくちゃね・・」
そう言って、出かけた。
▼きのうは、こみさんを旧湊川の川筋に案内したが、
福原京の「雪見御所」までは少し遠いので、
「あの北のあたりが、御所の中心だったそうな・・」
と指さすだけだった。
旧湊川(江戸時代末期)
福原遷都八百年記念碑 雪見御所跡石碑
▼前の「日記」の年表に書きもらしたが、
『平家物語』がほぼ形作られたのは、平家一門が
壇ノ浦で滅亡した寿永4年(1185年)三月から数えて
約三十年後の、後白河法皇のあと、後鳥羽院の時代だ。
「後鳥羽院の御時、信濃の前司(ぜんじ)行長、稽古のほまれ
ありけるが、楽府(がふ)の御議論の番に召されて、七徳の
舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを
心うき事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚
一芸あるものをば下部(しもべ)までも召しおきて、不便に
せさせ給ひければ、この信濃の入道を扶持(ふぢ)し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)と云ひける
盲目に教へて語らせけり。・・・」
と、『徒然草』第226段にある。
▼その『
平家物語』
巻第七に、「福原落(ふくはらおち)」がある。
さまざまな思いを抱いて都を落ちた平家一門は、かつての平家
ゆかりの地でもある、旧都・福原にたどりつく。
すでに去るべきものは去り、離れるものは離れ、
残るは平家と命運をともにするものばかり。
総帥・平宗盛は、その者たちを前に、平家一門の運命を語り、
あらためて結束を呼び掛ける。
「福原の旧都に着いて、大臣殿、然るべき侍ども老少数百人を召して
仰せられけるは、『積善の余慶家に尽き、積悪の余殃身に及ぶ故に
神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ参らせて、帝都を出でリ旅泊に
漂ふ上は、何の頼みかあるべきなれども、一樹の蔭に宿るも
先世の契り浅からず。・・』」
▼「積善(しゃくぜん)の余慶(よけい)家に尽き、積悪(しゃくあく)の余殃(よおう)身に及ぶ」
は、『周易』文言伝にある「積善之家必有余慶、積不善之家日必有余殃」
という句によったものらしい。
「積善」とは善行を積むこと。「余慶」は先祖の善行の結果、子孫にもたされる
よい報い。「余殃」は、先祖以来の悪行の報いとして、子孫に及ぶ
わざわいのことである。
旧いと云えば旧いであろうが、「宗教心」に旧いも、新しいもない。
「因果応報」ととらえようが、どうとらえようが、
助けるべきはこの身であるる
「平家納経」
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