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2010年06月12日20:08

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■福原落 (平家物語)

●6月12日(土)  晴れ

 ▼メモ
  ・妻といっしょに家を出る。
   妙法寺駅の改札で、
   「じゃぁ、楽しんで来てね」と、
   妻の声援を受け、
   私はこみさんとのデイトに向かい、
   妻は仕事に向かう。
  ・幸い、雨に降られなかった。
  ・夜、サイコたち来る。


 ▼きのう、つまり12日、「日記」を予約したまま眠ってしまった。
  一夜明け、いまごろになって、その「日記」を書いている。

  きょうは雨が降っている。
  妻は、9時に迎えの車が来て、
  舞子ビラでのシャンソンのディナーショウに
  出かけて行った。

  妻が歌う曲目は『捨てないで・・』。
  「しょうもな! 何が捨てないで・・よ。
   すがる女なんか私には似合わんわ。
   でも、切々とそれを表現しなくちゃね・・」
  そう言って、出かけた。


 ▼きのうは、こみさんを旧湊川の川筋に案内したが、
  福原京の「雪見御所」までは少し遠いので、
  「あの北のあたりが、御所の中心だったそうな・・」
  と指さすだけだった。

    
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        旧湊川(江戸時代末期)


    
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     福原遷都八百年記念碑           雪見御所跡石碑



 ▼前の「日記」の年表に書きもらしたが、
  『平家物語』がほぼ形作られたのは、平家一門が
  壇ノ浦で滅亡した寿永4年(1185年)三月から数えて
  約三十年後の、後白河法皇のあと、後鳥羽院の時代だ。


  「後鳥羽院の御時、信濃の前司(ぜんじ)行長、稽古のほまれ
   ありけるが、楽府(がふ)の御議論の番に召されて、七徳の
   舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを
   心うき事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚
   一芸あるものをば下部(しもべ)までも召しおきて、不便に
   せさせ給ひければ、この信濃の入道を扶持(ふぢ)し給ひけり。

   この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)と云ひける
   盲目に教へて語らせけり。・・・」 

  と、『徒然草』第226段にある。



 ▼その『平家物語巻第七に、「福原落(ふくはらおち)」がある。

   さまざまな思いを抱いて都を落ちた平家一門は、かつての平家
   ゆかりの地でもある、旧都・福原にたどりつく。

   すでに去るべきものは去り、離れるものは離れ、
   残るは平家と命運をともにするものばかり。
   総帥・平宗盛は、その者たちを前に、平家一門の運命を語り、
   あらためて結束を呼び掛ける。


  「福原の旧都に着いて、大臣殿、然るべき侍ども老少数百人を召して
   仰せられけるは、『積善の余慶家に尽き、積悪の余殃身に及ぶ故に
   神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ参らせて、帝都を出でリ旅泊に
   漂ふ上は、何の頼みかあるべきなれども、一樹の蔭に宿るも
   先世の契り浅からず。・・』」



 ▼「積善(しゃくぜん)の余慶(よけい)家に尽き、積悪(しゃくあく)の余殃(よおう)身に及ぶ」
  は、『周易』文言伝にある「積善之家必有余慶、積不善之家日必有余殃」
  という句によったものらしい。

  「積善」とは善行を積むこと。「余慶」は先祖の善行の結果、子孫にもたされる
  よい報い。「余殃」は、先祖以来の悪行の報いとして、子孫に及ぶ
  わざわいのことである。


  旧いと云えば旧いであろうが、「宗教心」に旧いも、新しいもない。
  「因果応報」ととらえようが、どうとらえようが、
  助けるべきはこの身であるる


  
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        「平家納経」


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