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2010年06月07日19:32

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■「無知」とか「非知」とか

●6月7日(月)  曇り、ときどき雨

 ▼メモ
  ・昼休み、外に出ると雨が降って来た。
   空は濁り、雨が土埃のにおいを巻きあげる。
  ・喫茶店に入って、たて続けにクシャミ、
   洟をかんでも、また出る。「冷房、止めましょうか」
   と聞かれる。
  ・家でコタツ、つける。

 
 ▼蒸し暑いのに、気温が上がらないのか、
  晩飯を食べたあと、足許が冷えるようで
  コタツのスイッチを入れる。

  暑いのか、寒いのか、
  夜はちょっとだけ冷える。


  「もう食べないの?」と妻が聞き
  「あとで食べる」と応えて、そのまま
  横になる。

  疲れたときは眠る。

    ・・・・

 ▼目が覚めたら一時前。
  予約してある「日記」を書きに来る。

    ・・・・

  書く必要があるのか、ないのか、
  自分のメモに・・、書く。



 ▼昼休み『最後の親鸞』を読む。


    <知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、
    その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。
    頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。
    
    頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することが
    できればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても
    最後の課題である。

    この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、
    いわば自覚的に<非知>に向かって還流するより仕方がない。

    しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけている
    ように思われる。
    横超(横ざまに超える)などという概念を釈義している親鸞が、
    「そのまま」<非知>に向かう自分の思想を、『教行信証』のような
    知識によって<知>に語りかける著書に込めたとは信じられない。


    どんな自力の計(はか)らいをもすてよ、
    <知>よりも<愚>の方が、
    <善>よりも<悪>の方が、
    弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、
    自分が限りなく<愚>に近づくことは願いであった。

    愚者にとって<愚>はそれ自体であるが、知者にとって<愚>は、
    近づくのが不可能なほどに遠くにある最後の課題である。


    
 ▼吉本隆明の、こんな文章に、私はかって惹かれたのだと思う。

  それにしても、ここに考えられていることを、こんな言葉の羅列ではなく、
  素直にわかりやすく語れば、どんなことになるのか。


  すごく僭越な事柄を述べているような気もする。  
  にもかかわらず、かつて私はこの言葉にあこがれたのだ。


 ▼いまなら、吉本隆明が親鸞を自分に引き寄せ、こんな言い方で
  思考するやり方に、批評家・評論家・あるいは吉本の言う「知者」の眼識と
  知識のすごさを感じるはするが、彼は何が言いたいのか、という疑問がある。

  おそらく、そうなると、それは吉本隆明という人にとっての問題・関心事
  ということになっていくのであろう。

  参考に聞かせてもらい、刺激も受けるが、彼の言葉にしびれたり、
  その思考パターンに乗せられたりすることはない。

  問題は、愚かなる身の救われることにある。

    ・・・・


 ▼きょう、家に帰ると、机の上に

   ケーキありがとう。
   おいしかったよ。

     byちかこ&あつし&さいこ

  というメモがあった。

  三人で来たのだ。

    ・・・・


  きのう、貰ったか買ったかしたケーキを
  妻が「これ食べる? サイコとこにやる?」
  と聞いた。

  それで、家のカギなら持っているので、留守中に取りに来るよう
  言ってあったのだ。

  昼、飯を食べていなかったので
  「ピラフも食べた」らしい。
  台所にサクランボもあったのに、
  これは手をつけず、茶碗を洗って帰ったようだ。


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