●6月7日(月) 曇り、ときどき雨
▼メモ
・昼休み、外に出ると雨が降って来た。
空は濁り、雨が土埃のにおいを巻きあげる。
・喫茶店に入って、たて続けにクシャミ、
洟をかんでも、また出る。「冷房、止めましょうか」
と聞かれる。
・家でコタツ、つける。
▼蒸し暑いのに、気温が上がらないのか、
晩飯を食べたあと、足許が冷えるようで
コタツのスイッチを入れる。
暑いのか、寒いのか、
夜はちょっとだけ冷える。
「もう食べないの?」と妻が聞き
「あとで食べる」と応えて、そのまま
横になる。
疲れたときは眠る。
・・・・
▼目が覚めたら一時前。
予約してある「日記」を書きに来る。
・・・・
書く必要があるのか、ないのか、
自分のメモに・・、書く。
▼昼休み『最後の親鸞』を読む。
<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、
その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。
頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。
頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向かって着地することが
できればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても
最後の課題である。
この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、
いわば自覚的に<非知>に向かって還流するより仕方がない。
しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけている
ように思われる。
横超(横ざまに超える)などという概念を釈義している親鸞が、
「そのまま」<非知>に向かう自分の思想を、『教行信証』のような
知識によって<知>に語りかける著書に込めたとは信じられない。
どんな自力の計(はか)らいをもすてよ、
<知>よりも<愚>の方が、
<善>よりも<悪>の方が、
弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、
自分が限りなく<愚>に近づくことは願いであった。
愚者にとって<愚>はそれ自体であるが、知者にとって<愚>は、
近づくのが不可能なほどに遠くにある最後の課題である。
▼吉本隆明の、こんな文章に、私はかって惹かれたのだと思う。
それにしても、ここに考えられていることを、こんな言葉の羅列ではなく、
素直にわかりやすく語れば、どんなことになるのか。
すごく僭越な事柄を述べているような気もする。
にもかかわらず、かつて私はこの言葉にあこがれたのだ。
▼いまなら、吉本隆明が親鸞を自分に引き寄せ、こんな言い方で
思考するやり方に、批評家・評論家・あるいは吉本の言う「知者」の眼識と
知識のすごさを感じるはするが、彼は何が言いたいのか、という疑問がある。
おそらく、そうなると、それは吉本隆明という人にとっての問題・関心事
ということになっていくのであろう。
参考に聞かせてもらい、刺激も受けるが、彼の言葉にしびれたり、
その思考パターンに乗せられたりすることはない。
問題は、愚かなる身の救われることにある。
・・・・
▼きょう、家に帰ると、机の上に
ケーキありがとう。
おいしかったよ。
byちかこ&あつし&さいこ
というメモがあった。
三人で来たのだ。
・・・・
きのう、貰ったか買ったかしたケーキを
妻が「これ食べる? サイコとこにやる?」
と聞いた。
それで、家のカギなら持っているので、留守中に取りに来るよう
言ってあったのだ。
昼、飯を食べていなかったので
「ピラフも食べた」らしい。
台所にサクランボもあったのに、
これは手をつけず、茶碗を洗って帰ったようだ。
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