●6月3日(木) 晴れ
▼メモ
・ようやく4月分の仕事の目途がつく。
同時に5月分の締めが始まる。
・汗ばむ。交差点で空を見上げる。
・きょうは寄り道をせず帰る。
▼6月に入って3日目。
きょうも平穏に過ぎた。
世の中には、信じられないような
いろいろな事件があり、それは
そう遠くない所でも起きている。
だから、悲しんでもいいはずなのに、
不思議に悲しまないようになった。
これはどうしてなのだろうか。
▼ところで、悲しむというのは、
何を悲しんでいるのだろうか。
結局のところ、
自分を憐れみ、自分を嘆く、
ということなのだろうか。
それとも、誰かのために
涙を流すということなのだろうか。
▼たとえ、誰かのためにであっても
憐れみや嘆きからは
直接に、喜びを生むことはないだろう。
だとすれば、どう考えたら
いいのだろう。
▼ずっと前の「日記」に、『
少し変わる』というのを書いていた。
「日記」に書いたとおり、今でも、
あがいたり、もがいたりする。
でも、「もう終わっているんだ」、
そう思うと安心もする。
「なんとなく、
そんな気分になることがあって
私は少し変わったような気もする」
と書いている。
▼これは、歳とった人の特権なのだろうか。
「もう終わっている」という感覚は、
「あきらめる」というのと、少しちがう。
どちらかと言うと、「もう終わっている」というのは、
「もう死んでいる」という感覚に近い。
「死んでいるのに、生きている」と云えばいいのだろうか。
▼前に「夢」の話を書いて、夢の中では、夢でおきることが
すべて「現実」なんだ、と思ったが、
それと、この「もう終わっている」感覚がよく似ている。
「もう終わっている」人間が、まだ「現実」に生きていて、
あくせくと、もがき、あがいているような感じだ。
そう思うと、あくせく、もがき、あがくのも
悪くはない。
「楽しむ」まではいかなくとも、死んだ人間がまだ生かされているようでもあり、
なんとなく、得した感じもする。
▼もう一回、死ぬまでのあいだは、
後ろを振り返らずに、
ずんずんと前に進んでいこう。
そう思うと、悲しんだり、嘆いたり
するばかりの「夢」では、つまらないと
思う。
でも、こんなこと
うちの奥さんに話したら、
「あんた、いまごろ気づいたの?」
と、笑われそうである。
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