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2010年05月03日08:42

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■器量(2)

●5月3日(月)  晴れ

 ▼きょうも天気はよさそうで、
  気温25℃、との予報。

  高速道路ではUターンラッシュが
  はじまり40キロの渋滞が予想されるという。

  朝8時に起きて、
  まだ休みであることにホッとし、
  もし3連休だったら、きょうがその始まりだと思って
  気分を新たにした。



    ・・・・・・・



 ▼福田和也『人間の器量』の腰巻には
  「なぜ日本人は、かくも小粒になったのか」
  「無私、反骨、強欲、豹変、挺身・・・・」
  とある。

    フォト


  「小粒になった」かどうか、確かめる方法はない。
  しかし、大方がそう感じているという前提があって
  この「本」が企画されたのだと思う。

  しかも、その思いは「かくも」と強調される程度に・・。

  では、なぜ小粒になったかと言えば、それは『器量』が問われなく
  なったためだと言う。


 ▼「無私、反骨、強欲、豹変、挺身・・・・」とあるのは、
  『器量』の「器」に盛られたその人となりである。

  本書の「第3章 先達の器量に学ぶ」では、
  
   ・西郷隆盛の無私
   ・原敬の反骨
   ・松永安左衛門の強欲

     ・・・・
  
  と、7人の『器量人』を紹介している。
  7人はそれそれ、その人となり、つまり「器」の種類は
  大いに違う。

  人物を『器量』で測るとき、その測る物差しは多種多様である。
  ありとあらゆる種類の「器」がある。中には「無欲」「強欲」と
  一見相反するように見える「器」で、『器量人』がいたりする。



 ▼それは、人がひとすじ縄ではいかないのと同様、
  人間の評価には多面的な側面があって、いくつもの観点から
  さまざまな「器」があるからである。


  それなのに、今日、風潮は「客観的」で「数値化」できる
  二、三の物差しで人間を測ろうとしている。

  人間が薄っペらになるのも当たり前で、
  人間を測る物差しが乏しく、貧弱になってきたということだ。



 ▼ところで、われわれでも、小さくは、無私の精神や、反骨を見せることがある。

  おそらく、どんな人にも、すばらしい気性や徳性が備わっているものだと
  思う。

  しかし、『器量人』と我々で大きく違うのは、そのスケール、
  「量」である。

  
  では、「量」とは何か。

  それは何人のために死ぬことができるか、
  この人のためならば死ぬことができると思える
  その人数のことだ。


    えっ、その人のために死ぬ・・?
    その人数が『器量』の「量」ですって?。  


    ・・・・・・・


 ▼人が死を怖がるのは、それは自分が死ぬからである。
  もし、自分のことを勘定に入れなければ
  死はひとつも怖くない。

  「その人のために死ねる」というのが激越であれば
  「その人のことで一喜一憂するか、どうか」と言い換えてもいい。

  損得でなく、その人のことで、真に、泣いたり、笑ったりするかだ。


  『器量人』でない私であっても、少なくとも
  親のこと(もう亡くなってしまったが・・)、子のこと、孫のこと、
  そして妻や、友達のことでは一喜一憂したい。

  国民や労働者の数に、たとえ及ばなくとも
  そのくらいの「器量」を持ちたいものだと思う。


  あるいは、「量」は、自分が責任を負っていると、そう自覚している人の人数、
  そう言い換えてもいいかもしれない・・。
  
  

 ▼『器量』とは、そういうことで、
  これを人に問うとは、自己の器量を測ることにも通ずる。


  会社の中であれ、世の中であれ、
  『器量』があると言われる人は、「器」の中に何が入っていようと
  そこには、自分を勘定に入れない無私の精神と相手を思いやる心があって、
  その思う心の、純粋さと篤さにおいて、尋常ではないのだ。


 ▼『器量』とはそういうことだと、この「本」は説いている。

  もちろん、私の解釈が幾分入っているところもあるが、
  通常の「道徳本」や「人物本」と比べて、
  この「本」は面白いと、私は思う。



  
 ●日記「総目次



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