●5月3日(月) 晴れ
▼きょうも天気はよさそうで、
気温25℃、との予報。
高速道路ではUターンラッシュが
はじまり40キロの渋滞が予想されるという。
朝8時に起きて、
まだ休みであることにホッとし、
もし3連休だったら、きょうがその始まりだと思って
気分を新たにした。
・・・・・・・
▼福田和也『人間の器量』の腰巻には
「なぜ日本人は、かくも小粒になったのか」
「無私、反骨、強欲、豹変、挺身・・・・」
とある。
「小粒になった」かどうか、確かめる方法はない。
しかし、大方がそう感じているという前提があって
この「本」が企画されたのだと思う。
しかも、その思いは「かくも」と強調される程度に・・。
では、なぜ小粒になったかと言えば、それは『器量』が問われなく
なったためだと言う。
▼「無私、反骨、強欲、豹変、挺身・・・・」とあるのは、
『器量』の「器」に盛られたその人となりである。
本書の「第3章 先達の器量に学ぶ」では、
・西郷隆盛の無私
・原敬の反骨
・松永安左衛門の強欲
・・・・
と、7人の『器量人』を紹介している。
7人はそれそれ、その人となり、つまり「器」の種類は
大いに違う。
人物を『器量』で測るとき、その測る物差しは多種多様である。
ありとあらゆる種類の「器」がある。中には「無欲」「強欲」と
一見相反するように見える「器」で、『器量人』がいたりする。
▼それは、人がひとすじ縄ではいかないのと同様、
人間の評価には多面的な側面があって、いくつもの観点から
さまざまな「器」があるからである。
それなのに、今日、風潮は「客観的」で「数値化」できる
二、三の物差しで人間を測ろうとしている。
人間が薄っペらになるのも当たり前で、
人間を測る物差しが乏しく、貧弱になってきたということだ。
▼ところで、われわれでも、小さくは、無私の精神や、反骨を見せることがある。
おそらく、どんな人にも、すばらしい気性や徳性が備わっているものだと
思う。
しかし、『器量人』と我々で大きく違うのは、そのスケール、
「量」である。
では、「量」とは何か。
それは何人のために死ぬことができるか、
この人のためならば死ぬことができると思える
その人数のことだ。
えっ、その人のために死ぬ・・?
その人数が『器量』の「量」ですって?。
・・・・・・・
▼人が死を怖がるのは、それは自分が死ぬからである。
もし、自分のことを勘定に入れなければ
死はひとつも怖くない。
「その人のために死ねる」というのが激越であれば
「その人のことで一喜一憂するか、どうか」と言い換えてもいい。
損得でなく、その人のことで、真に、泣いたり、笑ったりするかだ。
『器量人』でない私であっても、少なくとも
親のこと(もう亡くなってしまったが・・)、子のこと、孫のこと、
そして妻や、友達のことでは一喜一憂したい。
国民や労働者の数に、たとえ及ばなくとも
そのくらいの「器量」を持ちたいものだと思う。
あるいは、「量」は、自分が責任を負っていると、そう自覚している人の人数、
そう言い換えてもいいかもしれない・・。
▼『器量』とは、そういうことで、
これを人に問うとは、自己の器量を測ることにも通ずる。
会社の中であれ、世の中であれ、
『器量』があると言われる人は、「器」の中に何が入っていようと
そこには、自分を勘定に入れない無私の精神と相手を思いやる心があって、
その思う心の、純粋さと篤さにおいて、尋常ではないのだ。
▼『器量』とはそういうことだと、この「本」は説いている。
もちろん、私の解釈が幾分入っているところもあるが、
通常の「道徳本」や「人物本」と比べて、
この「本」は面白いと、私は思う。
●日記「
総目次」
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