●4月3日(土) つづき
▼きのう歯医者に行ったら、「ヨンセン・・」と先生は言っていたが、
実際は5800円だった。
「歯」の話は、私の中では「寛容」ということに繋がっていくのであるが、
それは又今度にして、きょうもオランダ話の続きを書くことにした。
・・・・
▼江戸時代、オランダ船が来航できる港は1641年以降、長崎だけになった。
前に書いた日記の
「年表」の記載、
「1641(寛永18) 10 オランダ人を出島に集む(鎖国完成) 」
が、それだ。
しかし、江戸時代の日本は完全に国を鎖(とざ)していたわけではない。
1960年代以前の研究では、「国を鎖す」その対象はヨーロッパやアメリカなどの
国を前提として進められていたが、その後、東アジアとの対外関係に力点を置いた
研究が前進し、いまでは「鎖国」とは言わず「海禁政策」という用語を使う
らしい。(
*)
「鎖国」あるいは「海禁政策」は、当時の東アジアにとってみれば、
貿易以外に「植民地化」をも伴う外国の侵入・進出に対して、「どう国を守るのか」という
切実な問題でもあった。
▼新たな研究からはっきり見えてきたことは、当時、「対馬口」を通じて
李氏朝鮮とつながり、「薩摩口」では琉球と、また「松前口」ではアイヌと、
そして「長崎口」ではオランダ人や唐人とつながっていたことである。
だから、日本が外国から孤立していたわけではない。見方を変えれば、
これらの「口」を通じて世界につながっていたのであり、その「口」を
制限、整備していったのが日本の「鎖国」「海禁政策」であった。
そして突き詰めると、これら「四つの口」は、当時、国交のなかった中国と
間接的につながるための経路でもあった。
日本にとって、江戸時代を通じて経済的にも、また文化的にも、最も重要な外国は
中国であった。
中国で生産される生糸や絹織物を入手し、漢籍・絵画などを輸入する
ためには、それらを安定的に確保するルートが必要であった。
▼しかし「長崎口」が整備されたあと、江戸時代後期から幕末にかけて
中国の比重はどんどん低下し、かわってロシアを含む、ヨーロッパやアメリカの
重要性が増してくる。
やがて「四つの口」のうち、長崎をのぞく他の「三つの口」は次第に地盤沈下して
いき、ときはまさに「近世」から「近代」へ移行していく。
本書『オランダ風説書』によれば、
中国で火事が起きたら日本にも火の粉が降ってくるかもしれないとは考えていても、
・・・ 中国が攻め込んでくるとか、中国の邪教が日本にも広がりかねない
という恐れは抱いていなかったであろう。
幕府が危険視したのは、ヨーロッパの思想や軍事力である。
・・・
とりわけ17世紀に恐れていたのは、ポルトガル、スペインといった
カトリック勢力による布教、貿易、領土の獲得を一体とした対外進出の
動きである。
そしてこの恐れは、18世紀後半から19世紀前半にかけて、
ヨーロッパ諸国が起こしつつある何か、何かよく分からない何か、
に変わっていく。
通商を求めているようだが、領土欲があるのかもしれない。
しかし、その何かがよく分からない。
これを「植民地化の危機」と呼ぶのはたやすい。
しかし、本書では、あえて少々落ち着きの悪い「西洋近代」という言葉で
その「よくわからない何か」を呼んでおく。
としている。
▼「軍事力」のかわりに「経済力」を入れ、「分からない何か」に
「グローバル化(広域化)」を入れれば、現在ただ今の国内外の状況と
そう変わりはない。
地方都市は疲弊し、貧しい国はいよいよ貧しくなる構図の中には、
「西洋近代」と同じ魔物が棲んでいるような気がしてくる。
「四つの口」を整備し「鎖国」することは、パンデミックと騒がれた新型インフルエンザや、
国際防疫体制のことを考えれば、あながち昔話ではないように私には思われる。
●日記「
総目次」
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