朝、サンタ・クローチェ教会へ。
しかし、教会は、急な工事か何かが入ったようで、作業員が出入りし、入場不可。
イタリアではこういう予告なしのハプニングはままあるそうで、目くじらを立てていたらキリがない、とSumikoガイド。
再開は明日午後か、との”？”付きの見通し。当てにはならない。明日午後はローマに戻るので、サンタ・クローチェは外観を目に焼き付けるのみにてアッリデベルチ。(写真1・・朝空の雲がまるでエル・グレコのようで、バロック風と悦に入る。)
さて、次の目的地はヴェッキオ宮殿。
イタリアの美術館では、入り口で探知ゲートを使った検査がだいたいある。刃物等をチェック、水は持ち込み禁止。
日本だと、勿論探知機迄使う所はないが、会場内で鉛筆を使用していたり、ガムを噛んでいると注意に来るけれども、ここイタリアではチェックポイントが異なる。鉛筆でノートにメモを描いていても、床に座り込んでスケッチをしていても、邪魔でない限り何も言わない。写真撮影も、場所に寄りけりだが、規制の緩やかな事が多い。
しかし、ここの入場検査には正直言って腹が立った。
その為に列がどんどん延びていくのもお構いなしで、個人々々時間をかけてチェックする。鞄を開けて中を見せろと迄言う。そこ迄要求されたのはここのみだ。しかも、ガードマンか警察か知らないが、物言いが実に横柄である。本来なすべき業務を勘違いしているのではないか、空港ではないのだから。
ここは1部を現在も市庁舎として使っているが、フィレンツェ政庁として1299年に着工されたもの。
その後1550年、ヴァザーリによって大改装され、メディチ家が住居としていた時期もある。
「500人広間」にはヴァザーリによる大壁画が左右両面にある。
これは有名な話だから簡単に話をするが、ヴァザーリ以前、この2つ壁はダ･ヴィンチとミケランジェロに制作依頼された。
巨匠2人の競合の如き状況となって、話題は沸騰した。2人は準備を始めた。
ダ･ヴィンチは『アンギアーリの戦い』、ミケランジェロは『カッシーナの戦い』。
アンギアーリは、自身のスケッチ、また、下絵をルーベンスが模写したものが残されている。凄い迫力だ。ヴァザーリも『画家･彫刻家･建築家列伝』でこの壁画を称賛している。
ダ･ヴィンチは一足早く壁に向かい始めた。早描きが必須とされたフレスコ画が苦手だった彼は、新しいトライアルとしてアマニ油を使用したが、それが溶けて垂れ出し、色が混じってしまった。何処迄描いた上での話かはっきりしないが、これによってダ･ヴィンチはこの壁画の完成を断念する。
また、ミケランジェロは、ユリウス2世に墓廟制作の為ローマに呼び出され、下絵迄で仕事は終わってしまう。
こうして結局幻の競作は実現しなかった。
しかし、この話は、今も幻に尾ひれがついて何かと話題になる。
ヴァザーリの壁画の裏に隙間がある事が判り、ダ･ヴィンチの未完の絵が残されているのではないか、そのいろんな調査結果がまことしやかにマスコミによって喧伝されたりする。また、ヴァザーリの画中に「Cerca trova(探せ、さすれば見つからん)」という言葉が、フィレンツェ軍旗に描き込まれているのが発見され、また大騒ぎになったり。
この件は、Sumikoさんからも明確な回答は出てこなかった。”Cerca trova”が何処に描かれているものか、双眼鏡で隈なく探したが見つけられなかった。恐らくかなり小さな文字で描かれているのだろう。美術館員さえも知らなかった。マスコミの話に振り回されるのは島国、しかも”木の民”の国民性で、長く重い”石の歴史”を背負い、それらと共に今の生活もあるイタリア人は、そんな些事に拘泥しないのかもしれない。
幻は幻のまま、ロマンはロマンのまま、宮殿を出でてシニョーリア広場へ。(シニョーリアは政庁の意)
ここには、相当数の像がレプリカを含めて立っているが、2つの文脈に分けて理解をしなければならない。
1つ目はミケランジェロの『ダヴィデ』の側に立つもの、2つ目はジャンボローニャの『コジマ1世騎馬像』の側に立つものである。制作の時代からでも、その像に込める意味を仕分ける事ができる。
1に含まれるのは、同『ダヴィデ』とドナテッロの『ユーディットとホロフェルネス』。(但し共にレプリカ。後者の本物がヴェッキオ宮の中にあったのは、先程確認したばかり。)
2は、ベンベヌート･チェッリーニの『メドゥーサの首を持つペルセウス』(写真2),バッチョ･バンディネッリの『ヘラクレスとカクス』,バルトロメオ･アンナマーティの『ネプチューンの噴水』,ジャンボローニャの『コジモ1世騎馬像』と『サビニ族の女の掠奪』。
1はルネッサンス期の1450〜1500年代初頭迄に作られた。
2は、1540年代〜1600年以前に作られ、作者達は全てマニエリズムの芸術家に区分される。
ユーディットがホロフェルネスの首を持つのと、ペルセウスがメドゥーサのそれを持つのとは、全く同意のようにも見えるが、込められた意図は全く違う。
1は、フィレンツェの共和制時代、共和制を脅かすものを敵として見た。つまり人民の敵とも言うべきものが、ゴリアテでありホロフェルネスである。裏返せば、ダヴィデとユーディットとは、人民が自身に被せた”かくありたい姿”の象徴という事になる。
2は、フィレンツェがトスカナ公国となり、王制となった時代の創作物。発注主は全てコジモ1世、人民の王となった人物である。彼が、人民に対して王権の威力を誇示し、人民を従わせる為に作らせたのがこれらの像である。つまりペルセウスもヘラクレスも、王の姿という事になる。コジモは海軍を創設し、海上でも覇権を取ろうとした。その象徴がネプチューンである事は言う迄もない。
以上のようによく似た英雄達の像であっても、意味するところは180°も違うのである。
その意味だけで芸術作品の優劣が決まるものではない点、注意が必要だとは思うが、しかし、結果として、1と2の出来の差はあまりに明らかである。
サヴォナローラの処刑場記念銘板をシニョーリア広場で確認した後、原計画にはなかったバルジェッロ美術館に寄る。
S先生の思いをSumikoさんに伝え、追加をお願いし、実現したもの。場所的にすぐ近くで、開館もしており、ラッキーだった。
この美術館所蔵のある彫刻について直前のレッスンで取り上げたばかりで、皆、その実物に巡り合える事は大変有意義だった。
それはドナテッロとヴェロッキョ、両者のブロンズによる『ダヴィデ』である。
殊に前者は大変官能的なもので、像の足が男の首を踏み付け、剣を持っていなければ、ダヴィデだとは思わない程だ。
何の知識がなくとも、このS字に撓んだ像から両性具有、また同性愛的なものを感じない人はいないだろう。(写真3)
フィレンツェという町が如何に同性愛傾向が高かったか、それはいろんな史実から知られる通り。それについては以下で詳しく触れた。
参→9/19日記「ティム･ダン映画『ミケランジェロ』」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1288133139&owner_id=3341406
ドナテッロの墓は、昨日確認しなかった(今さらながら意識に抜けが多い)が、確かサン･ロレンツォ教会、コジモ･デ･メディチの墓のすぐ脇にあった筈。
彼自身が、死んだ暁には、と、その場所を望んだのだそうだ。
ドナテッロはメディチ家から多大な庇護を受けたが、この話からは、援助への感謝以上のものを感じる。
ヴェロッキョの『ダヴィデ』も全く同じ系列。(官能性も芸術性もドナテッロの方が遥かに上だが。)
これのモデルは彼の門下となったばかりの少年レオナルド･ダ･ヴィンチだと言われている。
短い衣服から出たすらりとした肢体には、ユダヤの英雄という強さを象徴させるものは皆目ない。縮れ毛の下の紅顔はふくよかに微笑んでいる。
両者共に、ミケランジェロ作品と名は同じでも、描こうとする世界は全く違う。
バルジェッロでは、もう1つ、ドナテッロの代表作を観る事ができる、大理石の『若き洗礼者ヨハネ』だ。
少年の面影の残るヨハネは、荒野での苦行の後、獣の皮のボロボロの衣装を纏い、血の気も失せる程弱々しく立っているが、視線は霊感に持ち、半ば開かれた口は世の民に警告を発するかのよう。
しかし、ヨハネでは、まだある様式性と洗練とが、心の内なる真実への厳しい問い掛けと共存している。昨日、ドゥオーモ付属博物館で観た『マグダラのマリア』には、既に様式も洗練もなく、真理を厳しく見つめる荒々しい魂だけになっている。
ドナテッロの生涯(1386頃-1466)には謎が多く、いまだ解明されていない事柄が多い。『ダヴィデ』の制作時期も論争は結果を見出せていないようで、良心的な専門書では1430〜1450年代と大きな巾を持たせた表現をしている。『マグダラのマリア』は1450年代後半。『若き洗礼者ヨハネ』だけは1457年説でまとまっているようだ。(小学館、世界美術大全集第11巻<イタリア･ルネッサンス1>森雅彦)
とすると、マリアとヨハネはほぼ似た頃に作られているのか。年齢にすると70歳前後。
何れにしても、『マグダラのマリア』の後、彼は、サン･ロレンツォ教会の説教壇のレリーフ位しか手掛けていない由。 昨日しっかり観る事ができなかったものである。
ドナテッロの仕事は、550年の時間をすっ飛ばし、現代芸術に直接繋がる何かを孕み持っているような気がする。今後もう少し研究してみたい。
バルジェッロには、ミケランジェロの彫刻も所蔵されているが、それは最初期の『バッカス』である。ミケランジェロの中では官能性という点で異色な作品だ。
このパルジェッロ美術館にある作品をこうして眺めていくと、性的官能性に満ちたものが非常に多いのが判り、どうやってここに集められてきたのか、大変興味を惹く。
これも前日の日記に書いた事だが、サン･ジョヴァンニ洗礼堂北扉のコンクールで最後に残ったレリーフ2作、これも、このパルジェッロに並置されている。
ブルネッレスキの『イサクの犠牲』により強い迫真性が感じられるが、当時の人々はギべルティのバランスの良さを選択したのだろう。いつの時代も、新し過ぎるものは、大衆に好まれない。
書くのを忘れるところだったけれども、ここには、ベルニーニの『コンスタンツァ･ブオナレッリ』の胸像があったのだが、当日は公開していなかった。
ベルニーニの生涯の作品について、ローマ第3日の日記で概括したが、そこでピックアップしたジャンルに括られない作品がもう1つだけあって、それがこの彫刻である。
コンスタンツァはベルニーニの恋人だったとも言われているが、この像は、全く私的なもので、劇場的性格とは無縁である。極めて自然な面持ちで、今にも話し掛けそうな日常性の中にある。恐怖や恍惚といった極限状況下の人間の動きを捉えようとするものや、記念碑的意味を持たせようとする作品が多いベルニーニの中で、これだけは、全く違うのである。
若桑みどりは前掲書第16巻<バロック1>で言っている、「ベルニーニは生涯において最も個人的な、また最も近代的な肖像彫刻を1体制作した。(中略)過ぎていく時間のなかに消えさる一瞬をとらえた、写真のショットと同様の精神で制作された稀有な肖像」である、と。
計画になかったバルジェッロ美術館に行ける事になり、内心小躍りした私だが、この像と会えなかったのは残念だった。
さて、本日最後の目的地は、アルノ川にかかるヴェッキオ橋の向こう、ピッティ宮殿である。
本当は「ヴァザーリ回廊」を渡って行きたかったのだが、長期工事中との事で、計画段階で断念している。
ピッティ宮は、銀行家ルカ・ピッティが1457年にブルネッレスキの設計で着工させたものだが、1550年頃、コジモ1世が、ルカの死と共に建設中断されていたものを、ピッティ家から買い取り、建設を再開させた。増改築は19世紀末迄続く。
現在は、複数の博物館,美術館とボボリ庭園の複合体となっている、その中でパラティーナ美術館に我々は行く事とした。
ここで注目したのは、フィリッポ･リッピ『聖母子とマリア誕生の物語』、ボッティチェッリ『美しきシモネッタ』、ラファエッロの代表作の幾つか、ティツィアーノの『悔悛するマグダラのマリア』、アルテミジア･ジェンティレスキ『ユーディットと召使』、ルーベンスの『4人の哲学者』等。
ラファエッロでは通称『大公の聖母』と呼ばれているもの、『小椅子の聖母』と言われるもの、『アニョロ･ドーニ』『マッダレーナ･ストロッツィ』の1対の結婚記念肖像画、それから『ユリウス2世』と『レオ10世』の教皇肖像画等で、大変充実している。
『小椅子の聖母』は当時流行した”トンド”形式、円形の絵である。椅子に座るマリアが幼いイエスを抱いている。右脇ではこれも幼い洗礼者ヨハネが手を合わせ、十字の杖のアトリビュートを肩に立て掛けて2人を見上げている。マリアはこれも定め通り、赤の衣装に青のマント。珍しいのは、頭に巻くターバンのようなものと肩に掛けたショール、如何にも東方風の模様が施されている。まあイエスの丸々と太っている事。しかし、マリアの表情は今の幸せの先に、苦悩と悲しみとを見通している。
結婚記念肖像画に描かれたアニョロ･ドーニは、ミケランジェロにも絵を描かせている貴族。明日ウフィッツィ美術館で観る事になる『聖家族と幼児洗礼者ヨハネ』、これは”トンド･ドーニ”とも呼ばれている。ドーニが頼んだトンド形式の絵という意味だ。
結婚相手のマッダレーナの姿勢は、ダ･ヴィンチの『モナ･リザ』と全く同じ。ただ背景は、空気遠近法に寄らず、精緻に描き込んでいるところ、『モナ･リザ』とは異なる。前で重ねた手の指には、大きな指輪がこれでもかと3つ。同じ形の指輪が、新郎ドーニの指にも2つ。
残念ながら『ヴェールを被る夫人の肖像』、通称”ラ･ヴェラータ”とも呼ばれるものは、公開していなかった。”ラ･ヴェラータ”のモデルは、前述したバルベリーニの”ラ･フォルナリーナ”だと言われているのだが、この目で確認する事はできなかった。
ティツィアーノの『悔悛するマグダラのマリア』は、彼の最も芸術的完成度の高い作品に挙げられると思う。ヴェネチア派の線に頼らない筆使いと色彩はその通りだが、金の髪や肌に、対象に迫る描き込みがあって、素晴らしく人の心を打つ。マリアの見上げる眼差しには涙が出る。
ジェンティレスキ(オラツィオの娘)については、これも明日観る『ホロフェルネスを殺すユーディット』の後から感想をまとめたい。
上に掲げなかったが、カラヴァッジョでは『眠るクピド』に強い印象を持つ。
暗闇に沈むクピド(キューピッドまたはアモル、またはエロス)の変に捻った体、確かに羽は見える。しかし聖性はなく、口からは涎が垂れる。
最新の説だが、体に小児病の痕跡がある事から、実際に幼児の死体をモデルに使ったという事が確認されたという。
甘く無邪気で生気に満ちたクピド説話を、カラヴァッジョは、リアリズムと光の手法で劇的に変革してみせた。
大きなピッティ宮殿の内、多分1/5も見れただろうか。
ここには近代美術もあるし銀器工芸品や衣装の博物館もある。王家の居室も見れるようだが、それらは一切外した。緑の刈り込み美しい大庭園も。
今回外したのは全く正解だったと思うが、またいつかゆっくり来たいという思いも胸に疼く。
売店では日本語版の全作品図録を見つけたので購入した。21ユーロ、3000円弱。
後からパラパラと目を通すに、ボルゲーゼ美術館に展示されていた『マルタの騎士』は、ここから貸し出したもので、正式には『フラ･マルカントニオ･マッテッリの肖像』というのだそうだ。
こうして、フィレンツェの第2日目も終わりつつある。
夕食は、Asakoさんのご主人が懇意にしている地元のリストランテに連れて言って下さる。
華美でない、家庭的な料理が並ぶ。
カルパッチョの生魚の口の中でとろける事。
キャンティの口にまろやかな事。
ムール貝の殻は忽ち山となる。
我々グループのリーダー女性Kさんが、心の籠ったもてなしにお礼の挨拶。感極まって涙声に。つられて皆の目も潤む。
あのごっついドイツ男の眼も赤くなっている。体と顔はいかついが、正直で優しい奴なんだなと判る。
寂しいが、明日は最後の日だ。
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