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2009年07月23日21:18

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●うみうし独語(416)/■『狂人日記』 (8)

■『狂人日記』 (8)

 ●7月23日(木)  晴れ、 梅雨明けはまだ?

  今朝は、窓のすぐ近くから
  これでもか、これでもか、とクマゼミが
  鳴いているのが聞こえる。

  こちらからも、あっちからも
  窓にクマゼミの鳴き声が響く。


  新開地では、木という木、全部で
  クマゼミが一斉に切れ目なく鳴いているので、
  轟音のような感じだ。



  まえ、これほどではなかったが
  クマゼミが大合唱した日があった。
  しかし、それからセミは鳴きやみ
  毎日、雨が降ったりやんだり、一時的に土砂降りだったりして
  梅雨がもどってきた。 雨量はそう多くなく、むしむし
  する日が続いた。


  そして、今朝、また一斉に鳴きはじめた。
  セミは二回目の梅雨明け宣言をしている。
  しかし、職場の仲間は今週いっぱいはまだ
  梅雨の続きだ、と言った。

  セミが梅雨明け宣言を間違えたのでなく、
  天気自身が、すこし狂ってきているようなんだ。




 ●『狂人日記』のタイトルにして、もう8回目の日記になる。
  色川武大『狂人日記』の「本」に即しては、まだ何にも書けて
  いない。

  「本」の批評など、私の手に負えるものではないので、
  これはやむを得ない仕儀ではあるが、日記を訪問してくださる方には
  なんか、悪い気がしている。

  とくに、この「本」をすでに読んでおられる方には
  つまらないことばかり書いて申し訳なく思っている。




 ●「とてもいい本である。感動的だ。しかも実質的で生きていく上で
   非常に役に立つ本である。もし、まだ読んでおられないなら、是非
   お薦めする」

  「どんな本かって? それは読めばわかるし、検索すればレビューみたいな
   ものもあると思う」

  このくらいしか、私には言えないが、それをあえて
  まだ書いている。


  昨日、「実感」ということを書いたが、この言葉も誤解されやすそうなので
  少し補足する。

  実感があるとか、ないとか言うときの「実感」ではあるのだが、
  感じ方の一種としての「実感」ということではない。


  「実感」とは、「自分」と言い換えてもいいようなもので、
  これなくして「自分」が成立しない。

  この小説は、自ら狂人と認める男の「実感」、つまり「自分」について書いたものだ。
  「狂人」とはどんな人なのか、「自分」とはどんな男なのか、その男の真実、
  「実感」を書いた「本」だ。



 ●「実感」という感覚について書いた「本」ではない。

  「自分史」というのが一時はやったが、大方の自分史という「本」は
  自分で書く「伝記」みたいなものだが、この「本」こそ、「自分」というものの
  発見から今日、現在只今までを書いていて、「自分史」の名にふさわしい。

  「自分」つまり「実感」、「生きているということ」あるいは「魂」と言ってもいい、
  その生い立ちから現在までを書いている。


  だから「回顧録」といっても差支えないのであるが、一般に言う「自分史」でないのと
  同様、いわゆる「回顧録」ではない。


 ●で、ふと私は、『臨終の書』という言葉を思いついた。

  死の間際、人は自分の一生を走馬灯のように思い出すという。
  自分の一生とはいったい何であったのか、
  また、この自分とはいったい何者なのか、
  いま、死に臨み、
  自分とは何か、生きるとは何か、人生とは何か、
  そして死とは何かを、人は問うらしい。

  そして、死の床にある人は、おそらく「病人」であろう、
  狂人ではなくとも、苦痛もあり、夜は長く、残っているのは
  意識つまり「自分」と、あとわずかな「生」である。



  そのとき、人はどんなことを考えるか、
  ということである。


  この「本」は、そういう真面目な問題について、
  真正面から、真摯に、誠実に、語っている。

  私が「実質的で役に立つ」として、この「本」をお薦めする所以でもある。




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