■『狂人日記』 (8)
●7月23日(木) 晴れ、 梅雨明けはまだ?
今朝は、窓のすぐ近くから
これでもか、これでもか、とクマゼミが
鳴いているのが聞こえる。
こちらからも、あっちからも
窓にクマゼミの鳴き声が響く。
新開地では、木という木、全部で
クマゼミが一斉に切れ目なく鳴いているので、
轟音のような感じだ。
まえ、これほどではなかったが
クマゼミが大合唱した日があった。
しかし、それからセミは鳴きやみ
毎日、雨が降ったりやんだり、一時的に土砂降りだったりして
梅雨がもどってきた。 雨量はそう多くなく、むしむし
する日が続いた。
そして、今朝、また一斉に鳴きはじめた。
セミは二回目の梅雨明け宣言をしている。
しかし、職場の仲間は今週いっぱいはまだ
梅雨の続きだ、と言った。
セミが梅雨明け宣言を間違えたのでなく、
天気自身が、すこし狂ってきているようなんだ。
●『狂人日記』のタイトルにして、もう8回目の日記になる。
色川武大『狂人日記』の「本」に即しては、まだ何にも書けて
いない。
「本」の批評など、私の手に負えるものではないので、
これはやむを得ない仕儀ではあるが、日記を訪問してくださる方には
なんか、悪い気がしている。
とくに、この「本」をすでに読んでおられる方には
つまらないことばかり書いて申し訳なく思っている。
●「とてもいい本である。感動的だ。しかも実質的で生きていく上で
非常に役に立つ本である。もし、まだ読んでおられないなら、是非
お薦めする」
「どんな本かって? それは読めばわかるし、検索すればレビューみたいな
ものもあると思う」
このくらいしか、私には言えないが、それをあえて
まだ書いている。
昨日、「実感」ということを書いたが、この言葉も誤解されやすそうなので
少し補足する。
実感があるとか、ないとか言うときの「実感」ではあるのだが、
感じ方の一種としての「実感」ということではない。
「実感」とは、「自分」と言い換えてもいいようなもので、
これなくして「自分」が成立しない。
この小説は、自ら狂人と認める男の「実感」、つまり「自分」について書いたものだ。
「狂人」とはどんな人なのか、「自分」とはどんな男なのか、その男の真実、
「実感」を書いた「本」だ。
●「実感」という感覚について書いた「本」ではない。
「自分史」というのが一時はやったが、大方の自分史という「本」は
自分で書く「伝記」みたいなものだが、この「本」こそ、「自分」というものの
発見から今日、現在只今までを書いていて、「自分史」の名にふさわしい。
「自分」つまり「実感」、「生きているということ」あるいは「魂」と言ってもいい、
その生い立ちから現在までを書いている。
だから「回顧録」といっても差支えないのであるが、一般に言う「自分史」でないのと
同様、いわゆる「回顧録」ではない。
●で、ふと私は、『臨終の書』という言葉を思いついた。
死の間際、人は自分の一生を走馬灯のように思い出すという。
自分の一生とはいったい何であったのか、
また、この自分とはいったい何者なのか、
いま、死に臨み、
自分とは何か、生きるとは何か、人生とは何か、
そして死とは何かを、人は問うらしい。
そして、死の床にある人は、おそらく「病人」であろう、
狂人ではなくとも、苦痛もあり、夜は長く、残っているのは
意識つまり「自分」と、あとわずかな「生」である。
そのとき、人はどんなことを考えるか、
ということである。
この「本」は、そういう真面目な問題について、
真正面から、真摯に、誠実に、語っている。
私が「実質的で役に立つ」として、この「本」をお薦めする所以でもある。
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