■『狂人日記』 (4)
●7月19日(日) 続 曇り 夕刻に小雨か
さっきベランダに出てみたら、植込みの木々の葉が
暗がりの中で雨露に光っていた。
切れかかった蛍光灯が点滅するように
横尾山と高取山のあいだの南東の空に
なんの音もなく稲妻が明滅している。
午後三時ごろから、夕方まで寝ていた。
居間の座卓に脚を放りなげ、居間と台所を吹き抜ける風に
身をさらすようにして眠っていた。
いま、雷鳴が轟きはじめた。
雨も降り出した。 蒸し蒸しする。
もっと一気にザーッと降れと、思う。
雨の少なかった今年の梅雨が明けるのも
もうすぐだと思う。
●さきほどまで、私はある「本」を探していた。
そんな「本」など、どうでもいい話なのだが、やはり気になる。
いまの状態に「本」が置かれるようになるまで、私は自分の「本」が
どこにあるか、大概はわかっていた。 が、今は「本」がどこにあるか
ほとんどわからない。
「引き出し式衣装ケース」67個のどこかにある。
●だいたいが、この衣裳ケースを60個も購入するあたりから、おかしい。
また、私の「ビョーキ」がはじまっている。
「ビョーキ」といえば、「
本を買うのはビョーキである」し、こうやって
本論と関係なく話がどんどん横道にそれていくのも「ビョーキ」である。
私の日記自体が『狂人日記』みたいなものである。そうでなければ、
臆面もなく、これまでこんな「日記」を書く筈がない。
賢明な諸氏はそんな振る舞いはしないものである。
●ようやく見つけた。
「Kの二十一歳の誕生日を祝い同本を贈り
我も又これを求む。 昭和41年5月9日」
サン・テグジュペリ『星の王子さま』(岩波少年文庫)、その「本」の裏表紙に
そう書きこみがあった。結婚する前の妻に、自分の持っていた同書を贈り、
自分用にもう一冊買った「本」だ。
「本」に書いてあるバラの話や、キツネと話したこと、
―――かんじんなことは目に見えない。
―――あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思っているのは
そのバラの花のために、時間をむだにしたからだよ。
といったことを、彼女に伝えたくて贈ったのだ。
●ここでも、「肝心なことは目にはみえない」のであって、私が記憶しているような
「心で見ないと見えない」という字句はなかった。
しかし、肝心なことは目で見えなくて、これを心で見るというのは
これも怖いことである。
星の王子は、地球に来るまで六つの星に立ち寄っている。
・王様の星、・うぬぼれ屋の星、・呑み助の星、
・実業家の星、・点灯夫の星、・地理学者の星
サン・テグジュペリは人間の「典型」の例示としてこれらを挙げているが、
心で見ると、さまざまの人々がこれらの「典型」の相貌で、心が顔に現れた
人間として現実に見えてくる。
「鬼ッー!」と叫ぶ相手の相貌は、現実に「鬼」そのものである。
●なんと迂遠なことを書いているかと思う。
「幻視」などというと、なにか変った経験のように思い、
自分には、縁もゆかりもないように思う。
「夢」と「幻視」はどう違うのか。
昼日中、「現実」と思っている景色は「幻視」ではないのか。
「幻視」でない、その保証はどこにあるのか。
みんなが同じように見て、同じように見え感じている。
そういう暗黙の合意と安心感あり、相互間にトラプルが
ない場合には、これを「現実」だと思う。
●夜、寝るとき、すぐに寝つかないことがある。
目をつぶると何かが浮かんで見えるような気がする。
それが何であるか。
カーテンの端切れ、と思った瞬間、カーテンの端切れになり、
天井の蛍光灯を思うと、蛍光灯になったりする。
早く眠りにつこうとして、何も考えないようにする。
が、点や線や、図形や明るさ、意味のない何かが浮かぶと、
思った瞬間、それは思ったものになって現われて来る。
これは「幻視」であろうか。
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