■「会得」という記憶
●7月15日(水) 曇り、または晴れ 真夏日?
昼休み、喫茶店を出て交差点に向かう。
熱風のような風が、地面から吹き上げて来る。
湿度もあるにはあるが、信号が変わるのを待ちながら
風の中に、風の涼しさがあることに気づく。 そのことを肌が感じる。
おやっと思う。 私がそんなことを感じるなんて!
真夏日の日中の陽射しに、蒸し暑さばかりではなく
風の涼がある、とは。 これは考えたことではない。
一色の感情に塗りこめられないことは、いいことだ。
そして、そのことに頭で考えて気づくより、そのように
感じたことが、もっと私をうれしくさせた。
●「あんた、この靴下、洗うの? 洗うのだったら洗濯場に持っていって!」
「これは? このランニングも洗うの? 自分でちゃんと、洗うものは
出してちょうだい」
「誰が洗うと思っているの! ほんとに何遍言っても、わからないんだから・・。
あんた、学習能力、全然ないの?」
靴下は、もう一日履けるかもしれない、と思っている。
ランニングは、汗がひいたら、また着て、風呂に入るときに
洗濯機のところに出そうと思っている。
私に算段がないことはない、一応は考えているのだ。
けれど、そう考えていて、靴下は脱いだところに脱いだまま、そのままにして
次の日は、もう臭いかな、と思って、別のを履いたりする。
ランニングだって、椅子にひっかけたまま、風呂に入ったりする。
●私は妻に叱られながら、妻の言うことはもっともだし、
私は私で、私の方もこれも、まあ、もっともだとまでは言わないが、こんなものだ
と思っている。
だから、自分の行動を改める意志が、あまりないような感じだ。
ふりかえってみると、最近、私は反省ということをあんまりしなく
なったような気がする。
妻が「あんた、成長したねー。暖簾に腕押し、何言っても怒らないし、
上手にワタシを使う。ワタシより上手(うわて)でワタシはときどき
おちょくられているような気になるわ」と言う。
●「学習能力」というのは、基本的には過去の記憶を保持することのようであるが、
反省しないサルでも「学習能力」はある。
それは「知識」という記憶方法でなく、「会得」という記憶方法で行われる。
(と、私は思っている)
人間の行動は「知識」に大きく左右される。
知っていると知らないでは大違い、というヤツである。
世の大半は、この「知識」というもので構成されているのかもしれない。
しかし、残念なことに、この「知識」というヤツは「よく身につかない」ところに
その本質があるようだ。
●「体が覚える」というが、あれも実際は「体」が覚えるのではなく、
知識と同じように「脳」が覚えるらしい。
「覚える」というのは記憶するということで、「脳」は過去の記憶を
「脳」自身を変化させながら、現在へ保持する。
それにしても不思議なのは「自分」という記憶である。
「ワタシは誰〜れ、ココはどこ?」というセリフがあるが、
もし、ワタシという記憶を失ったら、人はどうなるのだろう、
と、ふと思う。
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